第21話 八試合ぶんの嘘
黒木を事務室に呼んだのは、その日の夜だった。
「一ヶ月です」
黒木は立ったまま言った。前と同じで中には入ってこない。
「足首でした。去年の二月、丸ごと。八試合、いませんでした」
「そのあいだ、何が変わりましたか」
黒木は少し考えた。
長い間だった。要は待った。
「……荒れました」
「荒れた」
「いや」
黒木は首を振った。
「そういう言い方をすると大袈裟になる。喧嘩があったとか、そういうんじゃないです」
黒木は言葉を探していた。
「……静かになった、っていうか」
「静かに」
「ロッカーで、誰も喋らなくなりました。着替えて、帰る。それだけになった」
黒木は自分の言葉に納得していないようだった。
「すみません。うまく言えない」
「いえ」
「言えないんですよ、これ」
黒木は少し笑った。乾いた笑いだった。
「何かありましたか」
要は聞いた。
「喧嘩とか、遅刻とか。何か一つでも、起きたことは」
「無いです」
黒木は即答した。
「それが、無いんですよ。何にも」
黒木は自分でおかしくなったのか、少し笑った。
「静かで、平和で、そのまま七つ負けました。……こんな話、聞いても仕方ないでしょう」
「いえ」
要は言った。
「聞きに来たのは、こっちです」
要は最後に一つだけ聞いた。
「黒木さん」
「はい」
「あなたなら、苅田さんを残しますか」
黒木の答えは早かった。
「残します」
「理由は」
黒木が止まった。
長い間があった。要は待った。それは十二月に、この男が事務室のドアの前で立ち尽くしていたときと、同じ長さの沈黙だった。
やがて黒木は諦めたように息を吐いた。
「……言えません」
「言えない」
「言えないんです。……すみません」
黒木は頭を下げて、出ていった。
要は資料を出した。
去年の二月。八試合。
そのあいだのチームの数字を全部並べた。
得点。失点。ターンオーバー。ファウル。第四クォーターの得失点差。二十点差以上で負けた試合の数。
一つずつ、前後の期間と比べていく。
何も、出なかった。
八試合で一勝七敗。苅田がいた月と同じだった。負け方も同じだ。接戦で落とし、大差で落とし、たまに拾う。
(……変わってない)
黒木は嘘をついていない。要にはそれが分かる。あの男は自分から事務室に聞きに来た男だ。何も無いのに何かを言うタイプではない。
だが、数字は変わっていなかった。
要は最後に、時間帯別の失点を出した。
第三クォーターだった。
苅田がいなかった八試合。第三クォーターの失点が、平均で四点、増えている。
要の指が止まった。
そのとき、ドアが開いた。
浜口だった。まだ帰っていなかったらしい。ロッカーの用具伝票を取りに来たのだと言った。
浜口の目が、机の上を通り過ぎて、戻った。
「……それ、なんですか」
「時間帯別の失点です」
浜口は覗き込んだ。そして、動きを止めた。
「四点」
「ええ」
「四点、増えてるんですか。苅田さんがいないと」
浜口の声が変わっていた。
「オーナー」
浜口は伝票を机に置いた。
「これ、いけますよ」
要は何も言わなかった。
「ハーフタイムです。ロッカーで一度切れた集中を、コートに戻ってから立て直す。そこが崩れてる。……ロッカーが静かになった月に、ロッカーを出た直後の八分が崩れてるんですよ」
浜口の手が紙の上を動いた。
「これ、資料にできます。俺、明日までに作ります。九百万の根拠には、十分――」
「浜口さん」
要は言った。
浜口が顔を上げた。
要は手を伸ばして、紙を引き寄せた。浜口の指の下から、静かに抜いた。
「忘れてください」
「……え」
「それは、嘘です」
浜口は要の顔を見ていた。
要はそれ以上、何も言わなかった。
浜口は伝票を持って、少し困った顔のまま、出ていった。
ドアが閉まってから、要は紙をもう一度見た。
八試合。
母数は八試合しかない。
たまたま第三クォーターに走られた試合が一つあれば、平均は簡単に四点動く。要は反対の期間も調べた。二年前の同じ時期、苅田がいた八試合を切り取ると、そこでも第三クォーターの失点は五点増えていた。
つまり、何も意味していない。
(……ノイズだ)
だが、要の手は、しばらく動かなかった。
浜口はさっき、「いけますよ」と言った。
あれは追従ではない。あの男は数字で人を切る側の人間だ。その男が、一目見て、いけると言った。
つまりこの紙は通る。
九百万を守れる。苅田は残る。誰も傷つかない。嘘をついたことに誰も気づかない。
要は自分の指を見た。
(……気づくのは、俺だけだ)
要はペンを取った。
そして、その数字に線を引いた。
(これは数字じゃない)
数字の格好をした、俺の願望だ。
要は椅子に座ったまま、しばらく動かなかった。
半年、要はずっと数字で戦ってきた。番場のときも、東のときも、黒木のときもだ。数字は要を裏切らなかった。誰も見ていないところに、必ず何かが埋まっていた。
掘れば、出た。
今回は掘っても出ない。
(……証明できない)
要は初めて、その言葉を自分に使った。
要は資料を閉じた。線を引いた紙だけは、丸めずに引き出しにしまった。
捨てなかった理由を、要は自分で考えないことにした。
(……あと、六日か)
浜口に答えを返すまで、六日しかなかった。
――最後まで読んでくださって、ありがとうございます。
続きが気になったら、ブックマークしていただけると嬉しいです。
ページ下の★評価も、続きを書く力になります。




