第20話 四十七回
翌日の練習は午後一時からだった。
要は体育館の二階の通路の隅に立った。ここからならコート全体が見える。誰にも見られずに済む。
(……見に来た、という形にはしたくない)
オーナーが特定の選手を見に来る。それが何を意味するか、選手はみんな知っている。
苅田悟はすぐに見つかった。
体が厚い。背は高くないが、肩と胸に肉がついている。若い選手とぶつかっても、この体は動かないだろうと要は思った。
練習が始まった。
苅田は最初から赤いビブスを着ていた。相手役だ。次の対戦相手のエースの役をやらされている。
志水が抜いた。苅田は追いつけない。
「うわ、はっや」
苅田の声が二階まで届いた。
志水が少しだけ笑った。
一時間が過ぎた。
苅田は一度もシューティングのメニューに入らなかった。ずっと赤いビブスのままだ。相手役をやり、走らされ、抜かれ、そのたびに何か言っていた。
要は気づいた。
このコートで、いちばん走っているのは苅田だった。
主力は休憩を挟む。順番にメニューを抜ける。だが相手役は抜けられない。相手役が抜けたら、練習そのものが止まるからだ。
(……試合に十一分しか出ていない男が、練習でいちばん走っている)
要はそれを手帳に書こうとして、やめた。
練習で走った距離を測る欄は、リーグの記録用紙に存在しない。
番場の声が飛んだ。
「玲央。今の、なんで打った」
志水の背中が固まった。
「……すいません」
「謝るな。答えろ」
番場の声は大きくない。だが、体育館の空気が一段沈むのが、二階からでも分かった。
志水は何も言えずに立っていた。
そこへ、赤いビブスが割り込んだ。
「番場さん、それ俺のせいっすよ。俺がわざと空けたんで」
「……空けてねえだろ、お前」
「空けたつもりでした」
番場が、ふん、と鼻を鳴らした。それだけで終わった。
志水がボールを拾って、列に戻る。
練習は止まらなかった。
途中で要の目が止まった。
ベイカーだった。
外国籍の得点源が、コートの端で水を飲んでいる。誰も近くにいない。番場も黒木も志水も、それぞれの輪の中にいた。ベイカーだけが輪の外にいる。
日本語が分からないからではない、と要は思った。
十二月から、この男の守備を、東が二人ぶん走って埋めている。それを全員が知っている。誰も口には出さないだけだ。
そこに、赤いビブスが歩いていった。
苅田が何か言った。ひどい発音の英語だった。二階まで聞こえるくらい大きな声で、しかも文法がめちゃくちゃなのが分かった。
ベイカーが笑った。
要はそれを見ていた。
(……なぜ、あの人だけが)
要は仕方なく、数えられるものを数えることにした。
苅田が声を出した回数だ。
四十七回。
二時間で四十七回。要はその数字を手帳に書いた。
書いてから、その無意味さに、自分でうんざりした。
(……それで?)
声を出す回数がリーグ一位だとして、それが何になるのか。年俸九百万の根拠になるはずがない。
練習が終わった。
要は一階に降りた。
郷田がボールカートを押していた。要に気づいて、面倒くさそうな顔をする。
「なんだ」
「一つ、聞かせてください」
「……」
「苅田さんは、毎日、赤いビブスですね」
「そうだ」
「なぜ、苅田さんなんですか」
郷田の手が止まった。
長い間があった。
要はその間を見ていた。
(……この人は、考えたことがない)
折れた鉛筆で、ひと月ぶんの失点を数えた男だ。東がスティールを狙わないという癖を、映像だけで見抜いた男だ。
その男が六年、毎日、同じ選手に赤いビブスを着せてきた理由を、答えられずにいる。
「……他に、やる奴がいねえからだ」
「六年、ずっとですか」
郷田は答えなかった。
代わりに郷田は要を見た。
その目に圧が戻っていた。
「オーナーさんよ」
「はい」
「あんた、あいつを切るのか」
要は答えなかった。
そして、聞いた。
「郷田さん。あなたなら、どうしますか」
その瞬間、郷田の顔から、表情が消えた。
十二月に、要が「次の一ヶ月も東を使ってもらえますか」と聞いたときとは違う消え方だった。あのときの郷田は動揺していた。
今は違う。
「……ふざけるな」
郷田は低い声で言った。
「使う奴を決めるのが、俺の仕事だ」
節くれだった手が、カートの縁を掴んだ。
「いる奴を決めるのは、あんたの仕事だろうが」
「……」
「切るなら切れ。名簿を寄こせ。俺は寄こされた面子で戦う」
郷田はカートを押して歩き出した。すれ違いざま、一度だけ足を止める。
「いつも、そうしてきた」
要はその背中を見送った。
決めるのは現場だと、要は十二月に言った。
だがこの人にとって、名簿は現場ではない。名簿は東京から降ってくるものだ。
(……逃げられた)
いや、と要は思い直した。
一度でも「切っていい」と言えば、次に切られる誰かの責任が、この人にも一枚乗る。
八年、この人はそれを一枚も背負わずに済んできた。降ってくるものに口を出さなければ、降ってきたものに手を汚さずに済む。
それがあの人に残された唯一の楽な場所だ。
(……俺は、それを取り上げようとしている)
通路を戻ろうとしたとき、後ろから声がした。
「……見に来たんですか」
黒木隼人だった。タオルを首にかけている。
要は答えなかった。
黒木はそれで察したようだった。少し目を伏せて、それから言った。
「一つ、言っときます」
「はい」
「あの人、去年、いなかった時期があるんですよ」
黒木はそれだけ言って、更衣室のほうへ歩いていった。
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