第19話 ゼロでは割れない
年が明けて、四つ負けた。
四点差。九点差。十一点差。オーバータイムで三点差。
二十点差の惨敗はもう無い。それは要実が変えたものだった。
だが、負けは負けだ。二十八戦して、二勝。
(……惜しい、は。売り物になりません)
十二月に、要が浜口に言った言葉だった。
同じ言葉がいま要自身に返ってきている。
一月の潮見は海から真っすぐ風が吹き上がってくる。事務室の窓は建て付けが悪く、閉めきっても隙間から冷たいものが入ってきた。
要は机に一枚の紙を置いていた。通帳の残高を、自分の字で書き写したものだ。
(……九ヶ月)
来季の開幕までの運転資金。就任した秋には一年あった。三ヶ月が消えて、残りはそれだけになっている。
ノックの音がした。
浜口が入ってきた。脇に分厚いファイルを抱えている。
「来季の人件費です。シミュレーションを作りました」
要はファイルを開いた。
「今年と同じ形だと、来季の頭で足が出ます。……開幕まで、もちません」
浜口の声は硬かった。だが逃げてはいなかった。
十二月に一度、この男は自分から踏み込んで聞いてきた。何が足りないのか、と。あれから浜口は言われる前に数字を持ってくるようになっている。
一枚目に名前があった。
苅田悟。二十八歳。
「削るなら、ここからです」
浜口はそう言った。要の顔を見ずに。
「年俸九百万。うちの中堅と、ほぼ同じです」
「出場時間は」
「今季二十八試合で、通算十一分です」
要は数字を追った。
「三年、遡りました」
浜口は続けた。
「三シーズンで、通算一時間半。四十分ゲームで、三試合ぶんも立ってないんですよ」
事務室が静かになった。
「浜口さん」
「はい」
「切らない理由は、ありますか」
浜口は少し黙った。
「……ありません」
正直な男だ、と要は思った。
「一週間ください」
「え」
「数えてみます」
浜口はファイルを置いて出ていこうとした。ドアのところでふと足を止める。
「……あの」
「はい」
「苅田さん、いい人なんですけどね」
言ってから、浜口は自分で困ったような顔をした。
「すみません。今のは無しにしてください。経理が言うことじゃない」
ドアが閉まった。
要は、その閉まった音のほうを、しばらく聞いていた。
夜になった。
要は東のときと同じことをした。オンオフだ。ある選手がコートにいる時間帯と、いない時間帯で、チームの得失点がどう変わるか。東はそれで見つけた。数字に出ない価値は、出方を変えれば必ず出る。
電卓を叩いた。
苅田がいる時間の失点。苅田がいない時間の失点。それを一分あたりに割り戻す。
指が止まった。
割れない。
割る数が十一分しかなかった。
要は電卓の表示を見た。
エラーが出ているわけではない。数字は出る。出るが意味がない。
十一分の中に、たまたま入った三本のシュートがあれば、苅田のオンの失点はリーグ最悪になる。たまたま外れていれば、リーグ最高の守備者になる。
同じ十一分でどちらにでもなる。
(……母数が、無い)
要は他の紙を引き寄せた。得点。リバウンド。アシスト。ターンオーバー。被ファウル。
どれもゼロか、ゼロに近い。
三シーズンぶん遡っても同じだった。苅田悟という選手は、リーグの記録の上では、ほとんど存在していない。
要は椅子の背に体を預けた。
番場には数字があった。育成の成果という形で、志水の中に残っていた。
東にもあった。失点という形で、四十分の中に沈んでいた。
黒木にもあった。七百本のシュートという形で、味方の指先の先にあった。
三人とも「数字が出ていない」だけだ。数字はあった。要はそれを掘り出しただけだった。
だが。
(……この人には、そもそも無い)
要はこれまで値付けをしてきた。安く買えるものを探して、正しい値をつけた。
値をつけるには材料がいる。
苅田悟には材料が一枚も無かった。
要は手帳を開いた。苅田の名前の横は空白のままだった。
(切れ、と数字は言っている)
数字は嘘をつかない。要はそれで、この半年を戦ってきた。
……ただ。
要は浜口の顔を思い出していた。ドアのところで足を止めて、余計なことを言って、自分で困っていた男の顔を。
浜口は数字で人を数える側の人間だ。ベイカーの資料を作ったのも、この男だった。感傷で名簿を曲げたことは、一度もない。
その浜口が一つだけ口を滑らせた。
――いい人なんですけどね。
要は名簿を閉じた。
そして上着を取った。
明日の練習を見に行くことにした。
それは要にとって、初めてのことだった。
これまで、選手はいつも先に数字だった。数字を見て、それから会いに行った。番場も、東も、黒木もそうだ。
苅田悟だけが、逆になる。
数字が何も言わないから、自分の目で見に行くしかない。
(……何を見ればいいのかも、分からないが)
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