第22話 くだらないこと
土曜日。ホーム。今季二十九試合目だった。
残り六秒。二点ビハインド。
タイムアウトは無い。
黒木がボールを運んだ。要は最前列から、その背中を見ていた。
体育館の音がすっと引いた。千五百人が同時に息を止めたのが分かった。バッシュの、フロアを擦る音だけが残った。
ベイカーが手を挙げていた。今日も二十八点取っている男だ。
だが、動いていなかった。
手を挙げて、その場に立っているだけだった。
黒木は渡さなかった。
(……渡せない)
要にも分かった。あの位置で立っているだけの男に入れたら、六秒は死ぬ。
コートで動いていたのは、一人だった。
東悠真だ。得点一桁の男が、ゴール下から一歩、外へ出た。誰にも呼ばれず、手を出した。
パスが通った。
東が打った。
十二月まで、この男は打たなかった。打てば外す。外せば戻される。だから打たない男だった。番場が「外していい」と言ってから、東は打つようになった。
要はその放物線を見ていた。
客席が立ち上がっていた。誰かが、声にならない声で、名前を呼んだ。
ボールが落ちてくる。
リングの、奥に当たった。ゴッ、と鈍い音がした。届かなかった音だ。
跳ねて、こぼれた。
ブザーが鳴った。
体育館が、音を取り戻すのに、一拍かかった。
二点差。負けだ。
立ち上がっていた客が、ゆっくりと座った。
それでも、拍手が起きた。
最後まで誰も帰らなかった。
要はその音を聞いていた。十月には第三クォーターで席が半分空いていた体育館だ。
(……惜しい、は)
要は最前列に座ったまま、動かなかった。
二十九戦して、二勝。
事務室に戻った。
ロッカーからは、まだ誰も出てきていない。
要は電卓を叩いていた。手が動いているだけで、頭は動いていなかった。
音がした。
がん、と金属が鳴った。ロッカーの扉だ。それから、椅子が倒れる音。
要は立ち上がった。
廊下に出た。
ロッカーのドアは閉まっている。要はその手前で止まった。
十二月に、番場が東に何かを教え始めたあの練習場でも、要は同じことを自分に言い聞かせた。
――俺が数えられるのは、数字だけだ。そこから先は、この部屋にいる男たちの仕事だ。
要はドアの前に立っていた。中には入らなかった。
聞こえるのは音だけだった。
志水の声だ。何を言っているかまでは分からない。ただ、若い声が高くなっている。
相手が誰かは聞かなくても分かった。
(……最後の一本を、誰が打った)
得点一桁の男が打った。二十八点取っている男は、手を挙げて立っていた。
あの部屋の中で、誰かがそれを言葉にしている。
ベイカーの椅子が動く音がした。立ち上がったのだ。
日本語は分からない。だが、あの声の調子は、どこの国の人間にも分かる。
番場の足音がした。
重い、ゆっくりした足音だった。要はそれを廊下から聞いていた。
背中に冷たいものが流れた。
(……壊れる)
要の頭が勝手に計算を始めていた。ここでロッカーが割れたら、残り三十一試合、このチームは持たない。番場と志水とベイカーの三点が同時に壊れる。修復には二季かかる。
要にできることは何もなかった。
そのとき、別の声がした。
要が知らない調子の声だった。
何を言ったのかは分からなかった。低くて、短くて、たぶん一言だった。
そして。
――笑い声がした。
一つじゃなかった。二つか、三つ。誰かが吹き出して、誰かがそれにつられた。
椅子が元に戻る音がした。
それだけだった。
要はドアの前に立ったまま、動けなかった。
何が起きたのか、分からなかった。
十分ほどして、ドアが開いた。
出てきたのは浜口だった。伝票を抱えたまま要を見て、少し驚いた顔をする。
「……オーナー」
「今、中で」
要は言った。
「何が、ありましたか」
浜口は口を開いた。そして、閉じた。
「……それが」
「危なかったんです。志水くんが、ベイカーに」
浜口はそこまで言って、また詰まった。
「番場さんも来て。……ああ、これは駄目だ、と思いました」
「ええ」
「そしたら苅田さんが、何か言って」
要は待った。
「……それで、終わったんです」
「何を言ったんですか」
浜口は本気で思い出そうとしている顔をした。
眉を寄せて、口を動かして、それから、諦めた。
「……思い出せないんですよ」
「え」
「くだらないことだったんです」
浜口は自分でも困っていた。
「本当に、くだらないことです。誰かの弁当の話だったような気もするし、違う気もする。……すみません。俺、目の前で聞いてたのに」
浜口は伝票を抱え直して、頭を下げて、行ってしまった。
要は廊下に残った。
十人の男があの部屋にいた。
全員がそれを聞いた。そして十分後には誰も思い出せない。
要は事務室に戻った。椅子に座って、天井を見た。
負けはまだ続く。
三月まで、勝てる材料は一つも増えない。東は伸びている。だが、まだ一人だ。
このあと三十一試合、負け続けたとき、あの部屋がどうなるか。
去年、あの部屋はひと月だけ静かになった。黒木はそれを「荒れた」と呼んで、うまく言えない、と言った。
要は手帳を開いた。
苅田悟の名前の横は、まだ空白だった。
浜口に答えを返すまで、あと二日だった。
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