第2話 門前払い
翌朝は海からの風にかすかな秋の匂いが混じっていた。
要実は体育館ではなく商店街にいた。
潮見銀座商店街。造船所が動いていた頃は、工員たちの帰り道で夜まで賑わったという。
今は三軒に二軒がシャッターを下ろしている。閉じた店より、開いている店を数えるほうが早い。
造船所が消え、駅前のデパートも消え――この町に残った“プロ”は、いまやバスケットボールクラブのホエールズ、ただ一つだった。
風がアーケードの隙間を抜けて、錆びた庇をかたかたと鳴らした。
要はそのシャッターの一枚一枚に見覚えがあった。
この靴屋で、初めての運動靴を買った。この本屋で、立ち読みして怒られた。
そして――アーケードのちょうど真ん中。色あせた貼り紙が一枚だけ残る区画。
かなめ商店 閉店のごあいさつ
要の実家だった。三年前に畳んだ。
父が最後にシャッターを下ろす音を、要は東京のアパートで電話越しに聞いた。
――ガラ、ガラ、ガシャン、と。あの音を今でも覚えている。
ゆうべ、要が手帳に書いた数字はこれだった。
――客単価、リーグ最低。会場に、金を使う理由がない。
千五百人が来て、試合だけを観て、まっすぐ帰る。開始のブザーで来て、終わりのブザーで帰っていく。会場に、早く来る理由も、長く居る理由もない。
みんな「客が来ない」を嘆いている。だが要が見ていたのは、その一段下だった。
(来た客が、財布を開けない。……開ける場所が、そもそもない)
そして、その答えは。目の前の、灯りの消えかけたこの通りにあった。
最初に落とす一軒は決めていた。
アーケードの外れ。半分シャッターの一角で、意地のように白い煙を上げている店。
焼き鳥 鍬形
暖簾をくぐると、脂と炭の匂いが鼻をついた。白髪の親父が一人、まだ火の入らない炭をじっと睨んでいる。
鍬形。要が子どもの頃から、ずっとここで焼いていた男だ。
「いらっしゃ……」
言いかけて、親父の顔が止まった。要の胸に下がったブルーホエールズのスタッフパスに目が留まる。
「……ホエールズ、か」
声の温度が一気に下がった。
「帰れ」
要は帰らなかった。黙ってカウンターの前に立っている。
親父は舌打ちして炭に火をつけ始めた。こちらを見もしない。マッチの燃える硫黄の匂いが立ちのぼる。
「昔な。あんたんとこの前のオーナーが来た。地域一体で応援を、ってな」
パチ、と炭が爆ぜる。
「町内会総出で金を集めた。ポスターも貼った。回覧板も回した。……で」
親父の手が止まった。
「勝てなくなった途端、東京へ帰りやがった。集めた金の礼の一つもなくな」
要は反論しなかった。それが事実だったからだ。
炭の爆ぜる音だけがしばらく続いた。
やがて要は鞄から一枚の紙を出した。カウンターに静かに置く。
焼き鳥のメニューではない。試合日の、体育館のコンコースの図面だった。
「試合の日。ここで焼いてくれませんか」
親父の炭を返す手が止まった。
「うちが金を出せとは言いません。売れた分は鍬形さんの取り分。うちはその一割だけ」
「……場所代を取ろうって腹か」
「先に儲かるのは、そっちです」
要はそれ以上言わなかった。言葉を重ねれば安っぽくなる。そう分かっていた。
沈黙が落ちた。炭だけがパチパチと鳴っている。
さっきまで「帰れ」の一点張りだった男が、いま黙って考えている。その背中が答えだった。
「……名前は」
ぼそりと親父が聞いた。
「要です。要実」
その名に親父の手が止まった。ゆっくりと振り返る。
「かなめ……お前、まさか」
要は何も言わず、アーケードの真ん中を親指で指した。あの、色あせた貼り紙の方を。
親父はしばらく何も言わなかった。火の入った炭を意味もなくひっくり返す。オレンジ色の火の粉がふっと舞い上がって消えた。
それから、そっぽを向いたまま言った。
「……一日だ」
「え」
「一日だけ試してやる。それで一本も売れなかったら、二度と面ぁ見せんな」
店を出ると、シャッターに傾いた陽が当たっていた。
一軒。まだ、たった一軒だ。
だが要は知っていた。この通りで、あの鍬形が「やる」と言った重さを。
頑固で、口が悪くて、誰よりも目が利く。あの親父が動けば――通りが動く。
要は、閉じたままの実家のシャッターの前で、一度だけ立ち止まった。
乾いた秋風が頬を撫でていく。
それから顔を上げて、次の店の暖簾をくぐった。
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