第3話 焼き鳥、一本
鍬形が折れてから、話は少しだけ動いた。と言っても順調とは程遠い。
「ホエールズぅ? あんたも懲りないねえ」
「鍬形さんが? へえ……いや、でも、うちはなあ」
門前払い。門前払い。また門前払い。
要実は頭を下げて通りを回った。断られても次の店の暖簾をくぐった。断られても、また次へ。
三年前まで、そこにいた店主たちだ。要の顔を覚えている者もいたし、実家のことに触れて口ごもる者もいた。
それでも、たった一言が通りの空気を溶かしていった。
「鍬形んとこが、やるんだと」
この一言が出ると、渋っていた店主の目が変わる。
「……あの偏屈が? 冗談だろ」
「本当かよ。じゃあ、話くらいは聞くか」
総菜屋のおばちゃん。暇を持て余した魚屋の大将。半分、店を畳みかけていた和菓子屋。
試合日までに要が口説けたのは――鍬形を入れて、四軒だった。
そして、試合当日。
朝から要はコンコースにいた。冷たいコンクリートの床に、四つの屋台がぽつんと並んでいる。いつものしなびた売店のすぐ隣に。
浜口が腕を組んでその様子を眺めていた。
「……本気でやるんですか、これ」
「やります」
「うちの客は千五百人ですよ。しかもみんな、試合が始まる直前に来て、終わったらまっすぐ帰る」
要は答えなかった。ただ、鍬形が炭に火を入れるのを黙って見ていた。
開場。まばらな客がぽつ、ぽつと入ってくる。いつもと同じ、寂しい光景――のはずだった。
だが今日は違うものがあった。
匂いだ。
タレの焦げる香ばしい煙が、コンコースにゆっくりと広がっていく。がらんとした体育館に、それはあまりにも場違いで――そして、どこか懐かしかった。
試合しか目に入っていなかった客の足が、ふと止まる。
「……なんだ? 焼き鳥?」
「え、今日、屋台?」
最初の一人が財布を出した。
「おやじ、二本くれ」
「あいよ」
じゅう、と脂の落ちる音。白い湯気が立ちのぼる。
要は少し離れた柱の陰から、その光景をじっと見ていた。
いつもはブザーと同時に来る客が、今日は少し早く来て、コンコースで足を止めている。連れと串を分けあって、笑っている。
一本、売れた。二本、売れた。
その一本ずつを、要は胸のなかで静かに数えていた。
試合が始まると、皮肉なことに屋台はさらに繁盛した。
ホエールズが弱いからだ。点を離され、逆転され、また離される。負け試合をただ見続けるのはつらい。
だが今日は――席を立てる。
ハーフタイムに総菜屋のコロッケを買う。子どもがたい焼きをねだる。魚屋の大将が急ごしらえしたあぶりの握りをつまむ。
試合を観に来たはずの客が、いつのまにか"その日"そのものを楽しんでいた。
「おい、要さん」
鍬形が額の汗を拭きながら、柱の陰の要を呼んだ。
「串が足りねえ。仕込み、全部はけちまった」
「……全部、ですか」
「ああ」
親父はぶっきらぼうに言った。だがその頬は火のせいだけではなく少し上気していた。
「こんなに焼いたの……何年ぶりかね」
その手は口とは裏腹に、もう次の仕込みのために動き始めていた。
試合は負けた。いつも通りの、二十点差の惨敗。
客が帰り、コンコースには屋台を片づける店主たちだけが残った。誰も、試合の結果の話はしていない。「今日は売れたな」と、それだけを言い合っている。
浜口が電卓を手に要のところへ来た。その顔はもう朝の不信の色ではなかった。
「今日の……会場内の売上です」
電卓の数字を要に見せる。それはクラブの年間赤字に比べれば、鼻で笑われるようなはした金だった。
要はその数字を覚えた。そして手帳を開き、昨日書いた数字のすぐ隣に書き足した。
小さな数字が二つ並ぶ。
「……これ」
浜口がぽつりと言った。
「去年までは、なかった売上ですよね」
要は答えなかった。ただ、少しだけ口の端を上げた。
浜口はその横顔を見て、初めて掴んだ気がした。この宝くじ長者が何を見ているのか、その、ほんの端っこを。
帰り際。片づけを終えた鍬形が要に串を一本差し出した。売れ残りの最後の一本。
「食え。売れ残りだ」
要はその焼き鳥を一口かじった。もう冷めていた。冷めていたが――旨かった。
まだ、たった一本。昇格まで、あと二千五百人。空の席は、うんざりするほど残っている。
だがこの夜。要の知らないところで――もう何年も動かなかった、あるスレッドが。
ひさしぶりに、ざわつき始めていた。
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