第1話 七億円で、潰れかけのクラブを買いました
五千席。そのすべてが空席だった。
潮見市総合体育館。天井の照明は半分が切れている。生きている蛍光灯だけが、剥き出しのフロアをぼんやりと照らしていた。コートの木目はところどころ剥げて、白く粉を吹いている。
コートの両端には、使い込まれたバスケットゴールが二つ。片方のリングはネットが破れて垂れ下がったまま、揺れもしない。
ゴール裏の看板はすっかり色が抜けていた。スポンサー名はもう読めない。かろうじて残っているのは、潮見ブルーホエールズの鯨のロゴだけ。
海を泳いでいたはずの鯨が、色を失って、灰色の壁に痩せて張りついている。
その誰もいない客席の最前列に、要実は座っていた。
冷えたパイプ椅子の感触が、尻から背骨へじわりと上ってくる。九月の下旬。外はまだ昼間は汗ばむ陽気だ。だが誰もいない体育館はうすら寒く、かび臭い空気がよどんでいた。
今日から――この潰れかけのプロバスケットボールクラブのオーナーだ。
(……本当に、買っちまったな)
二十九歳。この年末で三十になる。三週間前まで、地方の中小企業を回る地味な経営コンサルの、ただのサラリーマンだった。
隣で痩せた中年の男が遠慮がちに口を開いた。浜口。親会社が撤退したあとも残った、数少ないフロントスタッフの一人だ。膝の上で分厚いファイルを両手で抱えている。
「運転資金は、まあ……今季いっぱいは、なんとか」
言葉尻が濁った。自分でも信じていないのが声で分かる。
「来季の開幕までは、もちません」
要はコートを見たまま静かに言った。
「先月末の資金繰り表。このままの持ち出しなら、来年の秋――次のシーズンが始まる前に、底をつきます」
浜口の言葉が止まった。膝の上のファイルを思わず見下ろす。ゆうべ渡したばかりのあの資料。
まさかこの宝くじ長者が、最後の一ページまで読んでいるとは――その横顔に、そう書いてあった。
コートの向こうで、練習を終えた選手たちがこちらを見ていた。
「あれが、噂の」
「宝くじが当たっただけの、ただのファンだろ」
「一年ももたねえよ」
声を潜めているつもりなんだろうが、誰もいない体育館ではよく響く。
要は聞こえないふりをしなかった。ただ、鯨のロゴをじっと見ていた。
――事の始まりは、一万円分の宝くじだった。
毎年、年末になると潮見駅前の同じ売り場で、年末ジャンボを一万円分だけ買う。それが唯一の贅沢だった。
中学からバスケ部。才能はなくて、ずっとベンチ。コートに立てないぶん、相手の癖を読み、交代のタイミングを紙に書いて監督に渡していた。
そんな冴えない少年が、こっそり抱えていた妄想。
(もし当たったら。俺はホエールズを買う)
毎年、外れた。今年も外れると思っていた。
――当たった。七億円。
通帳の桁を三回数え直した。それから震える指で検索したのは、当せん金の使い道でも税金の相談でもない。
『潮見ブルーホエールズ、親会社撤退。存続に黄信号』
半年前の、小さな記事だった。迷いは一秒もなかった。
もっとも金さえ積めば買えるという話でもなかった。
当せん金が振り込まれても、クラブはすぐには買えない。換金の手続き。リーグの審査。財務の精査。オーナーの承認。……素人がぽんと名乗り出て、翌日にどうこうなる世界ではなかった。
当たりを知ったのは年明けだった。そこから審査だ精査だと待たされて、就任にこぎ着けたのはその年の秋。八ヶ月あまりがあっという間に過ぎていた。
だが要はその日々を無駄にしなかった。
ボロアリーナに、客として何度も足を運んだ。決算書を取り寄せ、資金繰りを素人なりに読み込んだ。他クラブの試合を録画で何十試合も漁った。
誰も見ていない選手の、誰も見ていない数字を。ひとつ、またひとつと拾い集めながら。
――そうして、秋。要はようやく、この鯨のオーナーになった。
審査は通った。どこの企業も手を挙げず、消滅を待つだけだったクラブに。リーグは藁にもすがる思いで、宝くじ長者の首を縦に振った。
(つまり俺は、次に潰れかけたら、真っ先に見放される立場だ)
その七億はもう半分以上が消えている。株の取得と、借金の穴埋め。残りも今季の赤字を埋めれば底をつく。
金で買えたのは、たった一年の猶予だけ。
要は立ち上がった。パイプ椅子がきい、と鳴る。誰もいない五千席をぐるりと見渡した。
平均観客、千五百人。空席は七割。普通に考えれば、詰んでいる。
だが要の目は客席では止まらなかった。その裏手――薄暗いコンコースの隅で止まった。
くたびれた売店が一つ、うずくまっている。ぬるいお茶と、しなびた菓子パン。温かいものも冷たいものも、ろくに置いていない。試合の日でさえ、店員が退屈そうに頬杖をついているだけ。
要はその景色を、子どもの頃から何度も見て育っていた。
「浜口さん」
「はい」
「去年、試合の日に。お客さん一人は、チケット代とは別に、この会場でいくら使いましたか」
浜口がきょとんとした。予想していた質問のどれとも違ったのだろう。
「……売店の売上ですか。ええと、割り戻すと……一人あたり数百円、いくかどうか、かと」
「なるほど」
要はそれだけ言って、手帳に何かを書きつけた。
浜口が首を伸ばして覗こうとする。だが要はもう手帳を閉じていた。
何を書いたのかはまだ誰も知らない。
コートの向こうで、また誰かが鼻で笑った。
いい。今は笑っていていい。
痩せた鯨が、灰色の壁からこちらを見ている。
潮見ブルーホエールズ、再建。残り、十二ヶ月――。
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