第163話 全部、生きてますか
十月の商店街は夕方が早い。
アーケードの明かりが点くころ、チェン・ウェイは蔵本と並んで歩いていた。
言い出したのはチェン・ウェイのほうだった。札を出している店を見ておきたい。練習の休みの日に通訳もつけずに、蔵本の集金に一日ついて回った。
総菜屋では婆さんに塩むすびを持たされた。
「あんた、瘦せてるよ」
「……瘦せて、ないです」
「瘦せてる。食べな」
チェン・ウェイは店先で立ったまま食べた。婆さんは食べ終わるまで見ていた。それが会話の全部だった。
鉄工所では山根が機械を止めずに出てきた。チェン・ウェイは工場の中を見せてもらった。油の匂いの中で若いのが二人、部品を箱に詰めていた。
「ここ、何を作ってますか」
「農機の部品だ」
「……前は」
「船だ」
山根はそれだけ言った。チェン・ウェイもそれ以上は聞かなかった。箱詰めの若いのが二人、手を止めずに、こっちを見て小さく頭を下げた。開幕から全部観てますと片方が言った。
米屋の前では蔵本の歩幅が変わらなかった。変わらないまま通り過ぎた。チェン・ウェイは看板を一度見て何も聞かなかった。通り過ぎ方で聞いてはいけないことだと分かったようだった。
閉めた写真屋の前では、チェン・ウェイのほうが足を止めた。
シャッターに色の抜けた七五三の見本写真が貼ったままになっている。
「ここは」
「去年、閉めた。ここの札は、壁に残ってる」
「……閉めた店の札、残すんですか」
「外す理由が、無いんでな」
チェン・ウェイは少し考えてから言った。
「それだと、継続率が、分からなくなります」
蔵本は歩き出しかけて、止まった。
「継続率は、浜口さんが持ってる」
蔵本は言った。
「これは、帳簿じゃない」
チェン・ウェイは何も言わなかった。見本写真をもう一度見てからついていった。
夕方、二人は体育館の通路に戻ってきた。
札の壁の前でチェン・ウェイは足を止めた。
六百十二枚が掛かっている。木の札。プラスチックの札。子どもの字の札。大きさは三段。掛かっている順は出した順。
チェン・ウェイは端から読み始めた。読めない字の札の前では、蔵本が屋号を読み上げた。焼き鳥屋。写真屋。酒屋。読み上げる声に番地までついてくる屋号がいくつもあった。二十九年、回った側の声だった。
子どもの字の札の前で、チェン・ウェイの指が止まった。
「これ、子どもの字です」
「孫が書いたんだと。婆さんが、書き直さないでくれと言ってな。そのまま掛けてある」
一万円の段の前では、少し長く止まった。
「これ、大きいです」
「山根鉄工。十一人の工場だ」
蔵本は言った。
「大きさは、店が決める。うちが決めるのは、場所だけだ」
「……これ、全部、生きてますか」
チェン・ウェイが聞いた。
「生きてるのと、残してあるのがある」
蔵本は言った。
「今年、閉めたのが二軒だ。去年までを入れれば、もう何軒かある。閉めた店の札は、全部そのままだ」
チェン・ウェイは壁の端から端までをもう一度見た。
「消えるクラブは、先に、壁が死にます」
チェン・ウェイは言った。
「スポンサーのボード、一枚ずつ、白くなります。更新の季節に剥がれて、次が入らない。白いところが増えて、それから、クラブが消えます。……三回、見ました」
「ここは」
「ここは」
チェン・ウェイはそこで一度、言い直した。
「ここは、剥がれません。だから、減ったかどうかは、分かりません」
「……」
「増えたかどうかだけ、分かります」
チェン・ウェイは言った。
「増えてます」
チェン・ウェイは二枚目の板の端の札の前で止まった。
五百円の名前だけの札だった。
「これは」
「李濬浩」
蔵本は言った。
「お前さんの前の男だ。三年いて、今年、出てった」
「……出た人の札、剥がさないんですか」
「本人が、寄ってきた。金は自分で払うから残せないか、と」
蔵本は言った。
「札は残すと、要さんが返事をした。あいつがここで何をしたかも、別に残したいそうだ。……そっちは、まだ決まってない」
チェン・ウェイはその札を長いあいだ見ていた。
出ていった選手の札が、まだ壁に生きていた。三度、消える側にいた男にとって、それは初めて見るものだった。消えたものから剥がされていく壁なら、三枚見てきた。残る壁は初めてだった。
「蔵本さん」
「なんだ」
「私の札、出せますか」
チェン・ウェイは言った。
「五百円の。……この隣に」
「理由は」
チェン・ウェイは少し考えた。
「増えるか、見たいです」
蔵本は手帳を出した。日付と名前と額を書いた。それから天気の欄に「晴れ」と書いた。
「順番があるんでな」
蔵本は言った。
「あいつの隣にはならん。いまの端の、次だ。それでいいか」
「それで、いいです」
蔵本は壁の右の端を見た。板は三枚だった。三枚目の下の段に、あと十枚ぶんの隙間が残っている。
「もっとも、その端も、そろそろだ」
「そろそろ?」
「掛ける場所が、無くなる」
蔵本は言った。
「三年で、三枚だ。四枚目を掛ける壁が、この通路には無い」
チェン・ウェイは通路を端から端まで見た。壁はそこで終わっていた。
「……増えて、困るんですか」
「困る」
蔵本は壁を見たまま言った。
「三年前は、剥がす場所を数えてた」
蔵本は手帳を閉じて、少しだけ笑った。
「選手に頼まれたのは、二人目だ」
帰り際、チェン・ウェイはもう一度だけ、壁の端から端までを見た。
「決算より、いいもの見ました」
「決算より、当てになるか」
チェン・ウェイは少し考えた。
「……同じくらい」
蔵本は笑って電気を消した。
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