第16話 あと二点
十二月の下旬。今日も負けた。
一点差。
残り十秒、黒木のパスが通った。ゴール下で志水が跳んだ。指先から離れたボールがリングの手前に当たり、上で二度跳ねて――こぼれた。
ブザーが鳴った。
志水はその場で両手で顔を覆った。
ロッカーは静かだった。
だが以前とは静けさの質が違った。
誰も携帯を見ていない。誰も先に着替え終わっていない。汗が引くのも忘れて、全員がその場に座り込んでいる。
「くそっ」
志水が壁を叩いた。金属のロッカーが、がん、と鳴った。
番場がその肩を無言で二度叩いた。それだけだった。
要実は廊下から、その音だけを聞いていた。中には入らなかった。
(あそこは、俺の場所じゃない)
事務室に戻ると、浜口が電卓を置いて立ち上がった。
「惜しかったですね!」
その声が明るい。
「一点ですよ、一点。去年なら二十点差ですよ。今日の客も、最後まで誰も帰らなかった。ブザーのあと、拍手が起きたんです。……負けたのに、拍手ですよ」
浜口は一枚の紙を振ってみせた。
「屋台も全部売り切れです。客単価、また上がってます」
要は椅子に座って、濡れたコートを脱いだ。
「……浜口さん」
「はい」
「順位表を見せてください」
浜口の笑顔が少し止まった。それでも一枚を差し出す。
要はそれを、しばらく黙って見ていた。
一番下。潮見ブルーホエールズ。二勝二十敗。
「一点差で負けるのも」
要は言った。
「二十点差で負けるのも。ここでは、同じ一敗です」
事務室が静かになった。
浜口の顔から、明るさが引いていく。紙を持つ手がゆっくりと下りた。
「……そうですね」
要はその顔を見て、目を伏せた。
「すみません。……言い方が、良くなかった」
「いえ」
浜口は首を振った。それから、ぽつりと言った。
「……でも、正直、私は嬉しかったんです。競れてるのが」
「俺もです」
要はそう言った。
浜口が顔を上げる。
「俺も、嬉しかった。……だから、まずいんです」
「まずい?」
「惜しい負けに、慣れる」
要は順位表を机に置いた。
「去年の二十点差に、この町が慣れてたのと。同じことです」
浜口は何も言えなかった。
しばらくして、湯気の消えたカップを両手で包んだまま、こう聞いた。
「……何が、足りないんですか」
要はすぐには答えなかった。
「昔、工場の再建をやったことがあります」
「はい」
「不良品が二割出てた。それを一割まで下げたとき、現場は喜びました。半分になった、と」
要は順位表を指で軽く叩いた。
「でも、その工場は潰れました。……得意先が求めてたのは、〇・一割だったので」
浜口の顔がこわばった。
「惜しい、は。売り物になりません」
要は選手の名簿を開いた。
十一人。
そこに並んだ名前を、上から順に、何度も見た。番場。黒木。志水。東。ベイカー。
そして、その下。
三つ、空欄がある。
登録できる枠を埋められていない。金がないからだ。
(あと二点が、届かない)
理由は、たぶん、采配じゃない。
郷田は毎試合、限界まで手を打っている。あの手書きのシートを見れば分かる。四十分のどこで誰を出すか、この男は一秒単位で計算している。
選手も走っている。東が入ってから、誰も試合を捨てなくなった。
なのに、あと二点が届かない。
要は名簿を閉じた。
(……足りないのは、人だ)
それも、たった一人か二人。
だが潮見に、その一人を買う金は無い。番場の契約で、補強予算はもう底をついている。
普通に考えれば、詰んでいる。
要は事務室を出た。
客が帰り、屋台も片づいた体育館は、また、がらんとしていた。
要は誰もいないコートの前まで来て、最前列のパイプ椅子に座った。
三ヶ月前、初めてここに座った席だった。
あのとき、五千席はすべて空いていた。今日も七割は空いていた。
変わったものはある。屋台の匂いがコンコースにまだ残っている。客単価は倍を超えた。口コミが動き始めた。負けても拍手が起きるようになった。
変わっていないものもある。順位表の一番下。それだけは九月から一ミリも動いていない。
(……この椅子に、あと何回座れる)
金で買えたのは、一年の猶予だけだった。そのうち三ヶ月がもう消えている。
天井の、切れたままの蛍光灯を見上げた。
灰色の壁で、痩せた鯨がこちらを見ている。
事務室に戻ると、浜口はまだ残っていた。
窓の外で、鉛色の海がうねっていた。
要はノートパソコンを開いた。
再生したのはBリーグの試合ではなかった。
画質が粗い。カメラは一台だけで、コートの端が切れている。歓声は薄く、実況の言葉は日本語ではなかった。字幕も読めない。
海の向こうの、どこかのリーグの映像だった。
要はそれを、無表情で見続けている。
浜口が恐る恐る覗き込んだ。
「……あの、オーナー。それ、どこの試合ですか」
要は画面から目を離さずに答えた。
「誰も見てない試合です」
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