第15話 一ヶ月
十二月の中旬。事務室の窓の外は朝から雨だった。
海が見えない。灰色の雨が灰色の空と海の境目を溶かしている。
ノックもなしにドアが開いた。
郷田学が立っていた。ジャージの肩が雨で色を変えている。手に紙の束を持っていた。
「オーナーさんよ」
「はい」
「一ヶ月だ」
要実は電卓から顔を上げた。
郷田は机の上に束をどさりと置いた。
要は一枚ずつめくった。
スタッツシートだった。東を使い始めてからの全試合ぶん。
だがそれはリーグから配られる印刷物ではなかった。余白に、びっしりと手書きの書き込みがある。
東がコートに出た時間。ベンチにいた時間。その各々の失点。相手のエースが取った点。
決して綺麗な字ではない。太い鉛筆で、力を入れて書いてある。何枚かは角にコーヒーの丸い染みがついていた。
一試合ぶんずつ、時間帯を区切って、几帳面に。
「数えたんですね」
「当たり前だろ」
郷田は腕を組んだ。
「一ヶ月で失点が減らなけりゃ二度と口を出すな。……そう言ったのは俺だ。なら、俺が数えなきゃ話にならん」
要はもう一度、束をめくった。
減っていた。全部、はっきりと。
「あいつな」
郷田がふいに言った。
「スティール、狙わねえだろ」
要は顔を上げた。
「はい」
「そこだ」
郷田は自分の手のひらを、机の上で開いてみせた。節くれだった、大きな手だった。
「守備のうまい奴ってのはな、たいてい獲りに行く。獲れりゃ客がわくし、スタッツにも載るからな。……だが獲りに行った瞬間、そいつは自分のマークを一回捨ててる」
手のひらがゆっくりと閉じた。
「東は捨てねえ。四十分、一回もだ。地味だから誰も気づかねえが、あれをやれる奴は俺の現場人生で三人もいねえ」
要は黙って聞いていた。
――この人は、映像を見て、それを見抜いている。
数字を渡す前から、たぶん、見えていたのだ。
「……で。あんたの勝ちだ」
郷田はそう言った。悔しそうでもなく、ただ事実を報告するように。
「東は使う。あれは、俺が見落としてた選手だ。見落としてたもんを認めねえのは、ただの意地だからな」
要は何も言わなかった。
郷田はしばらく、要の顔を見ていた。
それから、少し声を落とした。
「だが、勘違いするなよ」
「はい」
「東は東だ。あれ一枚が当たったからって、あんたの全部が正しいことにはならん」
郷田の目にまた圧が戻った。
「次にまた、わけの分からん補強を持ってきたら。今度は黙って見ちゃいねえぞ」
「分かりました」
要はうなずいた。
それから、静かに聞いた。
「郷田さん。次の一ヶ月も、東を使ってもらえますか」
郷田の動きが止まった。
長い間があった。
雨が窓を叩いている。事務室の隅で、古い暖房機がかたかたと鳴っていた。
「……あんた」
郷田の声が少し変わっていた。
「いちいち、聞くのか」
「え」
「東は使う、と俺は言った。もう決まった話だ」
郷田は一歩、机に近づいた。
「あんたはオーナーだろうが。黙って名簿を寄こせば、俺は戦うぞ。そういうもんだ」
要は少し考えてから答えた。
「決めるのは、現場だと思ってます」
郷田は答えなかった。
その厳つい顔から、一瞬だけ、圧が抜けた。
何かを言いかけて、口を閉じる。舌の上で、言葉を転がしているような間があった。
――何年ぶりだったのか。
この部屋で、誰かに「どうしますか」と聞かれたのは。
郷田の視線が、一度だけ、机の上の束に落ちた。自分が鉛筆を折りながら数えた、一ヶ月ぶんの紙に。
あれを数えたのは、約束のためだけではなかったのかもしれない。
久しぶりに、自分の判断を誰かが待っていたからだ。
結局、郷田はそれを飲み込んだ。
そして、ぶっきらぼうにスタッツシートの束を顎で指した。
「……それ、やる。あんたが数えたがるだろ」
「ありがとうございます」
「礼を言われる筋合いはねえ」
郷田は出ていった。
ドアは乱暴に閉まらなかった。
要は束をもう一度開いた。
鉛筆の跡が紙の裏まで凹んでいる。強く書きすぎて、途中で芯が折れた跡もあった。
(……この人は、数字が嫌いなんじゃない)
要はそう思った。
数字が嫌いな男が、一ヶ月ぶんの失点を、こんな字で、手書きで数えるはずがない。
なら、なぜこの人は、ずっと「点」だけを見ていたのか。
なぜ「勝てなきゃ意味がねえ」以外の言葉を、一度も使わないのか。
要は束を閉じて、引き出しにしまった。
その答えは、まだ聞いていない。
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