第14話 無口な男
十二月の練習場は、息が白くなるほど冷えていた。相変わらず照明は半分が切れている。生きている蛍光灯の下だけ、床がぼんやりと光っていた。
全体練習が終わって、選手たちは引き上げていく。ボールを撞く音がまばらになり、やがて消えた。
だが東悠真はコートに残っていた。
志水のようにシュートを打つわけではない。ただ黙って、床に転がったボールを一つずつ拾い、ラックに戻している。
要実は入口の暗がりから、その背中を見ていた。
(……あの男、まだ、チームの誰とも喋っていない)
移籍してひと月半。試合では相手のエースを潰し、町では名前が飛び交っている。
なのに、この男のロッカーの周りだけ、いつも静かだった。
背は高くない。肩は薄い。並んで立てば、番場の胸のあたりに頭が来る。コートの外にいると、プロには見えない男だ。
要はこの男の映像を、何十試合ぶんも見た。
見ながら、ずっと不思議だったことが一つある。
――東は、あれだけ走って、あれだけ床に身を投げるのに。一度も、味方に何かを要求しない。
パスを呼ばない。手を挙げない。怒らない。
ただ、黙って、埋めている。
「東」
黒木隼人がボールを一つ、東に放った。
「シュート、入ってねえだろ。何本か打ってから帰れ」
東は受け取った。少し迷って、ゴールへ向き直る。
放った。外れた。リングに当たった硬い音が、がらんとした空間に響いた。
黒木がリバウンドを拾って、また返す。東はもう一度打つ。また外れる。
三本目。
東はボールを持ったまま、動かなくなった。
それから、黒木へ戻した。
「……もう、いいです」
黒木の眉が寄った。
「なんでだよ」
「入らないので」
「入らねえから打つんだろうが」
東は答えなかった。ただ、また床のボールを拾いに行った。
(……ああ)
要は暗がりで静かに理解した。
この男は外すことを許されてこなかったのだ。
得点が一桁の選手がシュートを外す。それは前のチームで、たぶん、ベンチに戻される理由になった。一本外せば、次の日に出番が減る。二本外せば、名簿から消える。
だから打たなくなった。打たなければ、外さない。外さなければ、コートに残れる。
何年か。そうやって生き延びてきた男の体に染みついた癖だ。
(守備しかしなくなったんじゃない)
要は思った。
(……守備しか、させてもらえなかったのか)
要は手帳を開いた。だが、書く手が止まった。
書くべき数字がこれには無い。
体育館の床が低く軋んだ。
番場剛が、テーピングだらけの膝を引きずるようにして入ってくる。一歩ごとに右足だけ音が違う。
東が振り返った。ボールを抱えたまま、少し身構えた。
番場は東の前に立った。近くで見ると東より頭一つ大きい。その影が東を丸ごと覆っている。
「お前、うまいな」
東が瞬きした。
「……は」
「十を止めてただろ。あれ、俺には無理だ。もう脚がねえからな」
番場はそう言って、東の手からボールを取った。
そして、ろくに構えもせず、無造作にゴールへ放った。
入った。ネットが、ぱす、と鳴った。
「打て」
「……でも」
「外していい」
番場はもう一度ボールを拾って、東の腹に押しつけた。
「ここじゃ、外しても誰も怒らねえよ」
東はしばらくボールを見ていた。
自分の手のなかにある、その一つを。
それから、ゆっくりとゴールへ向き直った。
打った。外れた。
誰も、何も言わなかった。
東はリバウンドを自分で拾って、また打った。また外れた。
それでも誰も何も言わなかった。番場は腕を組んで、黒木は壁にもたれて、ただ見ている。
三本目。外れた。
四本目が入った。
「よし」
黒木がぼそりと言った。それだけだった。
東はうつむいて、小さくうなずいた。その耳が寒さのせいではなく赤くなっていた。
番場が体の向きを変えた。もう帰るつもりらしい。膝をかばって、ゆっくりと歩き出す。
その背中に。
「……あの」
番場が止まった。黒木も振り返った。
東がボールを抱えたまま立っていた。
移籍してひと月半で、この男が自分から口を開いたのを、要は初めて見た。
「もう一本、いいですか」
番場は振り返らなかった。片手だけ、軽く上げた。
「好きにしろ」
要は暗がりから、それを見ていた。
自分がこの男に払ったのは、端金だった。誰も値付けしなかったからだ。
数字はたしかに嘘をつかなかった。この男がいる時間だけ、失点は減る。それを見抜いたことを、要は間違いだとは思っていない。
だが。
この男に本当に足りなかったのは、金でも、物差しでもなかったらしい。
(……俺が数えられるのは、数字だけだ)
そこから先は、あの練習場にいる男たちの仕事だ。
要は手帳を閉じて、静かに出ていった。
誰にも気づかれずに。
――最後まで読んでくださって、ありがとうございます。
続きが気になったら、ブックマークしていただけると嬉しいです。
ページ下の★評価も、続きを書く力になります。




