第13話 アシストにならなかったパス
十二月に入って、体育館の底冷えはいっそう厳しくなった。その日の練習が終わったあと、要実は事務室で一人、電卓を叩いていた。
窓の外はもう暗い。暖房の効きの悪い部屋で、指先だけが冷えていく。
ノックの音がした。
「……いいですか」
黒木隼人だった。まだ練習着のまま、首にタオルをかけている。
(二十九歳。このチームの司令塔で――たぶん、いちばん報われていない男だ)
「どうぞ」
黒木はドアのところに立ったまま、中に入ってこなかった。何か言いかけて、やめる。それを二度繰り返した。
やがて、意を決したように口を開いた。
「……次は、誰ですか」
「次?」
「切る選手です」
要は電卓から顔を上げた。
黒木は続けた。淡々と。だがその声は少し硬かった。
「あんた、番場さんに会いに行きましたよね。あの練習場に、二度」
「……ええ」
「あの人、そのあと、しばらく誰とも口をきかなかった」
黒木の目は動かない。
「何を話したかは、聞いてません。番場さんも言わない。……でも、みんな察しました。ああいうのは、隠せない」
要は黙っていた。
「そのあと、あんたは番場さんを残して、誰も知らない選手を獲った。……誰も、あんたが何を考えてるのか分からない。分からないから、みんな怖がってる」
黒木はまっすぐ要を見た。
「ロッカーをもたせてるのは、俺です。だから聞きに来ました」
「次は、誰を切るんですか」
要はしばらく黙っていた。それから手帳を開いた。だが、見せはしなかった。
「黒木さん。去年のアシスト、リーグ平均以下ですよね」
黒木の眉がわずかに動いた。
「……それが、答えですか」
「いえ」
「知ってますよ、そんなことは」
その声に、乾いたものが混じった。
八年、言われ続けてきた言葉があるのだろう。堅実だが物足りない。手堅いが地味だ。
誰も文句は言わない。誰も、名前を呼ばない。
「もう一つ、数えたものがあります」
要は言った。
「黒木さんがパスを出したあと、味方がシュートを打った回数です」
黒木が黙った。
「アシストは、味方が決めないとつきません。打っただけじゃ、何も残らない」
要は続けた。
「七百本を超えてました。去年、黒木さんのパスから、味方が放ったシュートの数です。……リーグで、三番目だ」
事務室が静かになった。
「パスは、通ってるんですよ。決まってないだけだ」
要は言った。
「……黒木さんの数字は、味方の決定率に人質に取られてる」
黒木は動かなかった。タオルを握った手に力が入っているのが、離れていても分かった。
「だから、決める選手を連れてきます。何年かかるか分かりませんが、必ず」
要は続けた。
「そのとき、黒木さんの数字は勝手に上がります。……黒木さんは、何も変えなくていい」
長い沈黙があった。
やがて黒木は、ふ、と息を吐いた。笑ったのかもしれない。
「……あんた」
「はい」
「番場さんにも、そういう話をしたんですか」
要は答えなかった。黒木はその沈黙で、十分だという顔をした。
「……なるほどな」
ドアの枠から、体を起こす。それから、思い出したように言った。
「一つ、訂正します」
「はい」
「みんなが怖がってる、って言いましたが」
黒木は少しだけ、口の端を上げた。
「……怖がってたのは、俺だけでした」
そして、最後に聞いた。
「俺は、いつまでここにいられますか」
要は少し考えてから答えた。
「黒木さんが、パスを出し続けるかぎり」
黒木はしばらく、その言葉を噛んでいるようだった。それから、何も言わずに出ていった。
ドアが閉まる。
要は電卓に戻った。だがその手はしばらく動かなかった。
――誰も、あんたが何を考えてるのか分からない。
(……そのとおりだ)
そして、それでいいと要は思っていた。分かってもらう必要はない。数字が出れば、勝手に分かる。
……ただ。
要は手帳を開き、黒木の名前の横に、小さく数字を書き足した。アシストにならなかった、パスの数を。
その夜。黒木隼人は誰もいなくなった体育館で、壁に向かってパスを放っていた。
一人で。何百回も。壁は何も返さない。
八年、誰にも数えられなかった一投を。今日から、数えている人間がいる。
それだけのことだった。それだけのことが、この男には、初めてだった。
――翌日の練習から、黒木は変わった。
と言っても、誰にも分からない変わり方だ。ただ一つ。
それまで誰も回さなかった男に、黒木がボールを預け始めた。
東悠真。まだ、チームの誰とも、まともに口をきいていない男に。
――最後まで読んでくださって、ありがとうございます。
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