第17話 下げられない男
年内最後のホームゲームだった。
コンコースには焼きいもの匂いが立ちこめている。客席にはいつもより少しだけ人が多い。年末で帰省した客が、久しぶりに顔を出したのだろう。
要実は関係者席から、コートを見ていた。
ディオン・ベイカーは、今日もよく点を取った。
三十一歳。潮見のただ一人の外国籍選手。身長二メートル。ゴール下でボールを持てば、日本人相手にはまず止められない。
ポストで受ける。肩を一つ入れる。それだけで日本人のビッグマンが吹き飛ぶ。あとは置くだけだ。
前半だけで十八点。客席がわいた。子どもが「ベイカー!」と叫んでいる。
だが。
その次の守備で、ベイカーは走らなかった。
相手が速攻に出る。
ベイカーは自陣に戻らない。ゆっくりと歩いている。息が上がっているわけでもない。ただ、走らない。
がら空きのゴール下に、相手が易々とレイアップを決めた。
そのまた次も。ベイカーはスクリーンに簡単に剥がされ、追いかけもしなかった。
その穴を東が走って埋めた。
東はもう、この試合で二人ぶん走っている。ベイカーが捨てたゴール下まで戻り、また外まで出て、自分のマークにつく。四十分、それを続けている。
要はストップウォッチを押していない。だが数えなくても分かった。
――ベイカーが取った十八点より、ベイカーが与えた点のほうが、たぶん多い。
要はベンチを見た。
郷田学が腕を組んでいる。その顎の筋肉が、固く盛り上がっていた。
郷田の右手が動いた。
交代を告げるために上がりかけた。指が控え選手のほうへ向きかけた。
――止まった。
郷田はその手を、そのまま膝に下ろした。
そして舌打ちを一つして、また腕を組んだ。
ベイカーはコートに残った。
試合は八点差で負けた。
ベイカーの得点は二十六点。チームの最多得点。
試合後のコンコースで、子どもが親にねだっている声が聞こえた。ベイカーのタオルが欲しいらしい。
要は柱の陰でそれを聞いていた。
(客は、あの男を見に来ている)
それも嘘ではない。
だが要の手元のメモでは、ベイカーがコートにいた時間の失点は、いなかった時間の倍近くあった。
出れば出るほど、このチームは負けに近づく。
(郷田さんが、それに気づいていないはずがない)
あの手書きのスタッツシートを、一ヶ月ぶん数えた男が。
事務室。浜口の淹れたコーヒーだけが、白い湯気を立てていた。
「浜口さん」
「はい」
「一つ、聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「ベイカーの契約は、誰が決めましたか」
浜口の手が止まった。カップが受け皿の上で小さく鳴った。
しばらく、返事がなかった。
「……私では、ありません」
「郷田さんですか」
浜口はゆっくりと首を振った。
「いえ」
要は何も言わなかった。ただ、続きを待った。
浜口はカップを置いた。それから、少し声を落とした。
「前の年です。うちが最後に、少しだけ勝ってた年。……本社から、話が来ました」
「話」
「点が取れる外国籍を獲れ、と。客が入る絵が欲しい、と」
「……誰の、指示ですか」
浜口は少し黙った。
「財前さん。本社の、役員です」
その名を言うとき、浜口の声が硬くなった。
「大洋の、生き残りみたいな人でしてね。……このクラブから手を引く判を押したのも、たぶん、あの人です」
浜口の目が机の一点を見ている。
「私は、資料を作りました。誰を獲るか。いくらまで出すか。どこと交渉するか。……全部、東京と、この部屋で決まりました」
「郷田さんは」
「……呼ばれてません」
浜口の声が少し掠れた。
「開幕の直前です。ベイカーが来ました。郷田さんは、その日に初めて、あの選手の顔を見ました」
浜口はそこで言葉を切った。
コーヒーの湯気が、細く上がって消えた。
それから、絞り出すように言った。
「……何も、言われませんでした。この面子で勝て、とだけ」
要は何も言わなかった。
窓の外はもう真っ暗だった。年の瀬の海が見えない場所で鳴っている。
(……だから、下げられないのか)
高い契約だから。それもある。客が呼べるから。それもある。
だがそれ以上に――あの男は、自分が選んでいない駒で、ずっと戦わされてきたのだ。
気に入らないと言う権利が、最初から無い。文句を言う相手もいない。決めた人間はもう東京にいる。
だから郷田は上げかけた手を下ろす。
そして「勝てなきゃ意味がねえ」と言う。
(あれは、頑固なんじゃない)
要はそう思った。
(……あの人から、手段を、全部取り上げたやつがいるんだ)
育てる金は無い。駒は選べない。残ったのは目の前の一勝にしがみつくことだけだった。
なら、あの人の口から出る言葉が、それ一つになるのは当たり前だ。
要は手帳を開いた。
そして、選手ではなく、ヘッドコーチの名前の横に、初めて何かを書きつけた。
浜口が首を伸ばして覗こうとする。
だが要は、もう手帳を閉じていた。
――最後まで読んでくださって、ありがとうございます。
続きが気になったら、ブックマークしていただけると嬉しいです。
ページ下の★評価も、続きを書く力になります。




