第158話 ATMが、空になった日
海南銀行の潮見支店は、商店街の入口にある。
築五十年の建物で天井が低い。ロビーの椅子は六つ。八月の午後は客より行員のほうが多かった。
要実と浜口は二階の応接室に通された。
浜口が三年、通った部屋だった。運転資金の借り換えを頼みに来て、三年、同じ椅子で同じ返事を聞いた。今日は呼ばれて来た。同じ部屋でも椅子の座り方が違って見えた。
緒方は名刺を一枚出した。融資担当とある。日に焼けていない顔で、声が静かだった。
「三年、お断りしてきた側です」
緒方は先にそう言った。
「存じてます」
「今日は、その言い訳から始めさせてください。……浜口さんには、この部屋で三年、同じ顔をさせました」
浜口は何も言わなかった。組んだ指が少し動いただけだった。
「三年前のうちの判断は、正しかったと思っています。あのときの御社に、貸せる材料はありませんでした。売上四億。観客千五百。オーナーの個人資産が、唯一の担保でした。個人の財布は、担保になりません」
「はい」
「去年の春から、見る数字が変わりました」
緒方はファイルを開いて、要のほうへ回した。
銀行の中の資料だった。クラブの決算が三期ぶん並んでいる。その横に要の知らない数字があった。
「うちの支店の、窓口の記録です」
緒方は言った。
「四月の最終土曜。御社が四千四百十二人を入れた日です。あの日の夕方、駅前のATMが、空になりました」
「……空、ですか」
「現金が、尽きたということです。補充が、月曜までできなかった」
緒方はその行を指で押さえた。
「調べたら、前に空になった記録は、十四年前の三月でした」
要は顔を上げた。
十四年前の三月。事務室の入口の上に掛かっている写真の日付だった。五千百二人が入った日。地区の決勝で負けた日。あの日も駅前のATMは空になっていた。
「商店街の夜間金庫も、いつもの三倍入りました。焼き鳥屋さん、総菜屋さん、酒屋さん。硬貨が多くて、数えるのに朝までかかったそうです」
「硬貨、ですか」
「屋台の売上は、硬貨で来ます」
緒方は言った。
「銀行は、決算を見ます。ですが、決算は年に一度しか出ません。町の現金は、毎日動きます。私どもは、そちらも見ています。……この三年、潮見の土曜の現金は、御社のホームゲームの日だけ増え方が違います」
「はい」
「もう一つ。今年に入って、商店街から設備の相談が増えました。冷蔵ケースの入れ替え。店先の照明。看板の掛け替え。どれも小さい金額です。ですが、三年前まで、この通りから設備の相談は来ませんでした。閉める相談しか、来ませんでした」
緒方はページをもう一枚めくった。
「それと、この春から、駅前の旅館の口座が動き始めています。ホームの二連戦の週末だけです。二日券で来て、泊まっていかれる方がいる。……まだ小さい数字です。ですが、三年前はゼロでした」
緒方はファイルの端を揃えた。
「金は、明るいほうに動きます。ですから、話を聞きたいと申し上げました」
要は話した。
箱の話だった。五千の席。造船所の跡。市の関与。数字はまだ何も無い。あるのは二千六百歩と、蒲生に言われた三十日と浜口の百九日と、机の上の五文字だけだった。
緒方は最後まで聞いた。メモを取らなかった。
「正直に申し上げます」
緒方は言った。
「土地の取得と建設で、九十億前後。うちは地銀です。単独では、逆立ちしても組めません。組めるとしたら、市が事業主体になって、うちは民間分の一部です。……順番で言うと、市が先です」
「……」
「市が動けば、うちも動けます。市が動かなければ、うちの稟議は、書き出しの一行から書けません」
市が先。浜口と同じことを銀行も言った。
「民間分は」
要は言った。
「うちが、いくら出せますか」
緒方は閉じかけたファイルに手を置いた。
「その数字は、私どもが出すものではありません。……考え方だけ、申し上げます」
「クラブさんが出せる額は、いま御社の口座にある現金ではありません。新しい箱が生む金を、先に借りる形になります。興行の収益。年間の利用。命名権。物販。それを積んで、十五年で返せる線を引く。その線が、御社の上限です」
「箱が、まだ無くてもですか」
「無いから、借りるんです」
緒方は要を見た。
「銀行が見るのは、建物ではありません。その箱が、誰にいくら請求できるかです」
「その線は、動きますか」
「動きます」
緒方の声は静かなままだった。
「取れるものが減れば、線は下がります」
要は頭を下げて立ち上がった。
「要さん」
緒方が最後に言った。
「三年前、あなたに貸さなかった判断を、私は正しかったと申し上げました。……ですが、間違いも一つありました」
「はい」
「あなたの財布が尽きる前に、この数字に気づくべきでした。四千四百十二人の前に、三千人の土曜が二年ありました。……うちは、二年、見落としていました」
緒方はファイルを閉じた。
「銀行に見えない数字を集めるのが、あなたの仕事なら。見えるようになった数字を数えるのが、うちの仕事です。次は、遅れないようにします」
階段を下りながら、浜口が言った。
「三年、あの部屋で断られました」
「はい」
「今日、初めて、茶が出ました」
浜口はそれだけ言った。三年ぶんの言い分を、この男は湯呑み一つの話にした。
帰り道、商店街のアーケードを抜けた。
総菜屋の店先で新しい冷蔵ケースが白く光っていた。据え付けの業者が、まだ養生のテープを剥がしている。婆さんがその横で腕を組んで見ていた。
緒方の言った数字が、そこに置いてあった。
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