第157話 音が、無えな
夕方の海沿いの道を、番場剛が歩いていた。
速くはない。宮里に決められた速さがある。膝に響かない歩幅で毎日同じ道を四十分。十九年目の夏は走ることより歩くことのほうが多かった。
金網の前に要がいた。
番場は足を止めた。
「……何やってんだ、こんなとこで」
「見てました」
「何を」
「広さを」
番場は金網の向こうを見た。夕方の光で草の先だけが白く光っていた。海からの風がそこを渡っていく。遮るものが何も無かった。
「言っとくが」
番場は言った。
「箱の話なら、聞かねえぞ。一回、聞いた」
「はい」
「決まってから言え。決まってねえ話は、膝に悪い」
「……膝に、ですか」
「膝に来るんだよ、期待ってのは」
番場はそれだけ言った。十九年、シーズンのたびに今年こそはと言われてきた男の言い方だった。期待の乗せ方も降ろし方も、この人は膝で覚えていた。
要はうなずいた。番場は要の隣に並んで同じ金網に手をかけた。聞かないと言った男は帰らなかった。
「ここな」
番場が言った。
「昔は、うるさかったんだ」
「……音ですか」
「音だ。鉄板を叩く音が、朝から晩までしてた。学校の窓を閉めても、聞こえてた。誰も、うるさいって言わなかったけどな。あれが止まると町が終わるって、ガキでも知ってたから」
番場は金網の向こうのクレーンの基礎のあたりを見ていた。
「進水式の日は、サイレンが鳴った。長いやつだ。あれが鳴ると、婆さんたちが手を止めて、海のほうを向いた。でかい船が、初めて水に浮く日だ。町じゅうが、半日、そわそわしてた」
「見たことは」
「あるよ。ガキのころ、親父の肩の上でな」
番場は言った。
「船ってのは、でかいんだ。陸で見ると、話にならんくらい、でかい。あれが横に滑って、水がこう、盛り上がる。音が、腹に来る。……あの音を聞いた奴は、この町を、なめられねえよ」
要は黙って聞いていた。
番場が昔の話をするのは、珍しかった。十九年目の男は思い出を語らない。語らないまま焼き鳥屋の看板の下で飲み、朝は誰より早く体育館に来る。それが番場だった。
「中にな、コートがあったんだ」
番場は更地の真ん中あたりをあごで指した。
「福利厚生ってやつだ。食堂の裏に、屋根つきの立派なのが。昼休みになると、工員が三対三やってた。作業靴のままでな。うまいのも、下手なのもいた。……大洋の企業チームにゃ、あっから上がった奴もいたよ」
「昼休みだけ、ですか」
「夜もやってた。交代勤務の連中が、明けで打ってた。誰も教えねえし、誰も止めねえ。ただ、ゴールと床があった。それだけだ」
番場は言った。
「閉鎖のときな、あのコートの床板を、欲しがった奴がいたらしい。学校にでも移せねえかって。……駄目だった。建物ごと、まとめて潰す契約だったんだと」
「工場の中から、ですか」
「そうだ。昼休みの三対三から、企業チームに上がって、地区の決勝まで行く。そういう順番が、この町にはあったんだ」
番場は言った。
「十四年前の写真、あるだろ。事務室の」
「はい」
「あの日の客席もな。半分は、ここの人間だ。作業服のまま来る奴がいた。夜勤明けの奴が、いちばん前で寝てた。試合が終わると、みんな、ここへ帰ってった。……体育館とここは、同じ町の、表と裏だったんだ」
番場は金網から手を離した。
「音が、無えな」
それだけ言った。
風の音と遠くの波だけが残った。鉄板を叩く音もサイレンも昼休みのボールの音も、この土地はもう持っていなかった。五千百二人の半分を出した場所が、草の下で静かだった。
番場は歩き出した。行きかけて振り返らずに言った。
「オーナー」
「はい」
「膝は、まだある」
番場はそのまま夕方の道を歩いていった。決められた歩幅で決められた速さで。
要はその背中と金網の内側を順番に見た。
決まってから言えと番場は言った。決まってねえ話は膝に悪いとも言った。それでもあの人は、膝はまだあると言って帰った。決まったら間に合わせるという意味に、要には聞こえた。
暗くなるまで要はそこにいた。
波の音だけが金網を抜けてきた。
音の出る場所はいまこの町に一つしか無かった。土曜の体育館だった。子どもが走り、屋台が呼び、負けた日でも拍手の鳴るあの古い箱だけだった。
表と裏、と番場は言った。裏が消えて、表だけが残った。残った表に町の音が全部集まっている。ではあの箱まで古びたとき、音はどこへ行くのか。
要はその問いを、初めて数字の外で考えていた。
要の手帳にはまだ二千六百歩としか書いていなかった。
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