第156話 二千六百歩
造船所の跡地は町のいちばん東にある。
海に向かって平らな土地が広がっている。建物はもう無い。二年前に解体が終わって、コンクリートの基礎だけがところどころ草の下に残っている。金網のフェンスがその全部を囲っていた。
造船所の門があった通りの角に、整形外科の看板が残っている。中は空で看板だけがまだ整形外科だった。
八月の朝、要実はその金網の前に立っていた。
フェンスには看板が一枚ついている。管理は東京の会社。連絡先は東京の番号。大洋重工の名前はどこにも書いていない。持ち主の名前を出さないまま、土地は五年囲われていた。
要は金網に沿って歩き始めた。
歩きながら数えた。
海沿いの長い辺は九百歩あった。途中に船を下ろした斜面の跡がある。コンクリートが海へ向かって沈み込んで、その先が黒い水になっていた。柵の錆がそこだけ厚い。
角を曲がると引き込み線路の跡が草から覗いていた。錆びたレールが二本、金網の下をくぐって途中で切れている。鉄を運んだ線路だった。運ぶものが無くなって、切られた側だけが残っていた。
正門だった場所には門柱が二本立っている。社章を外した跡が、丸く色違いに残っていた。その内側に守衛室の土台があって、人の立つ場所から先に草が濃くなっていた。
途中で犬を連れた年寄りとすれ違った。向こうから声をかけてきた。
「兄ちゃん、何もねえよ、ここは」
「……広いですね」
「広いだけだ」
犬が金網の下の草に鼻を突っ込んで動かなくなった。年寄りは急かさずに待っていた。急ぐ理由の無い散歩だった。
年寄りはやがて犬に引かれて行ってしまった。何もないと言うために、この人は毎朝ここを通るのだろうと要は思った。何も無くなったことを確かめる散歩が、この町にはまだ残っていた。
一周して元の場所に戻った。
二千六百歩だった。
要はその数字を手帳に書いた。面積なら登記を調べれば出る。坪単価も近隣の取引を並べれば出る。だが要は先に歩いた。数字で見る前に大きさを足で知っておきたかった。五千席の箱を置いて駐車場を置いて、それでもまだ余る広さだった。
汗がシャツの背中に張りついていた。
引き上げるとき、白い軽自動車が一台、フェンスの外側をゆっくり通った。管理会社の巡回だった。運転席の男は要を一度見て何も言わずに通り過ぎた。囲ってあると看板が言い、囲ってあるぞと車が言う。五年、この土地はそうやって守られてきた。誰のためにかは看板に書いていなかった。
金網の目の向こうで、草が同じ方向に倒れていた。海からの風の形だった。五年、風だけがこの土地を使っていた。
昼過ぎに浜口が事務室で聞いた。
「朝、どちらへ」
「造船所の跡です」
浜口は書類をめくる手を止めた。
「……中に、入れたんですか」
「入れません。周りを、一周しました」
「一周」
「二千六百歩でした」
浜口はしばらく黙った。この男は三年で要の数字の使い方に慣れている。慣れた上で今日の数字には困った顔をした。
「それで。いくらするんですか、あそこは」
「値段は、まだ無いです」
要は言った。
「売り物に、なっていません。大洋が、売りに出していないので」
「売りに出たら」
「うちには、買えません。桁が、違います」
浜口は電卓を引き寄せた。叩かずに脇へ置いた。桁が違う話に電卓は要らなかった。
「一つ、調べたことがあります」
浜口は言った。
「あの土地、更地のままでも、固定資産税が出ます。あの広さだと、年に千五百万は下らない。五年で、七千五百万を超えます」
「……」
「大洋は、それを払い続けてます。使いもしない土地の税金を、五年です。それでも売らないのは、それ以上の値上がりを待てるからです。待てる金が、あるからです」
浜口は机の上で指を組んだ。三年前からの癖だった。言いにくいことを言う前に、この男は指を組む。
「うちには、待てる金も、買う金もありません。買えるとしたら、市です。……ですが要さん、市が動く理由が、ありますか」
要は答えなかった。
浜口の言うとおりだった。クラブが四千人を入れたい。損益分岐を超えたい。昇格の基準を満たしたい。全部クラブの都合だった。市役所の窓口に持っていける紙は、一枚も無かった。
夕方になる前に和久井が紙を一枚持ってきた。
「造船所跡の件です。フェンスの看板の番号に、問い合わせました」
管理会社を通した回答だった。差出人の欄に大洋重工の名前が初めて出ていた。
「売却の予定は、あります」
和久井は言った。
「ただし、自治体からの引き合いを待つのは、三月三十一日までだそうです。それ以降は、通常の売却手続きに戻すと」
「……理由は」
「書いてありません」
要はその一行を二度読んだ。
売らないと書いてあるなら、話は簡単だった。売ると書いてある。期日まで書いてある。五年待った会社が、もう一年は待たない。それだけのことだった。
浜口が横から紙を覗き込んだ。
「三月ですか」
「三月です」
浜口はそれきり何も言わなかった。買えるとしたら市で、市が動く理由は無い。その二つのあいだに、期日が一つ挟まっただけだった。
夕方、要は事務室の入口で足を止めた。
写真が上に掛かっている。十四年前の五千百二人。埋まった客席。通路に立つ人。
要は朝の更地を思い出した。
あの広さにこの人数が、入る。
入れたことのある町だった。
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