第151話 俺の次は、誰ですか
体育館の裏に自動販売機が一台ある。
三年前、要が買ったときにはもう壊れていた。去年、業者を呼んで直した。ボタンが二つ光らないままだが、缶は出る。
李濬浩はその前に立っていた。
「要さん」
李濬浩は缶を一本買った。それからもう一本買った。二本目を要に渡した。
「話。あるでしょう」
要は受け取った。冷たかった。
三年前の二月だった。
要は映像を何百時間も見てこの選手を見つけた。得点は少ない。アシストも多くない。ただ外へ回されたあと、戻っていた。毎回、戻っていた。
戻る奴なら使う。要はそう言って獲った。
三年、李濬浩は戻り続けた。掲示板はこの選手のことをほとんど書かなかった。書かれるのは点を取った日だけだった。李濬浩が点を取った日は、三年でそう多くない。
「更新、しない。そうでしょう」
李濬浩が言った。
要はうなずいた。
「はい」
「理由。聞いて、いいですか」
「アジア枠を、若くします」
要は言った。
「それと、外国籍をもう一枚、登録します。その金が、いま無いので」
李濬浩は缶を開けた。
「俺の、金ですか」
「はい」
要は言った。言い換えなかった。
李濬浩はしばらく黙っていた。
それから笑った。怒った顔ではなかった。
「あなた、ちゃんと言います」
「はい」
「前のクラブ、言わない。紙、来ました。……漢字、いっぱい」
李濬浩は缶を一口飲んだ。
「読みました。分からない。誰の金か、書いてない」
要は何も言わなかった。
「自分、いくらか。分からないで、出る」
李濬浩はそこで言葉を探した。
「……あれ、きついです」
その一言のためにこの選手が何秒か黙ったことを、要は見ていた。
「俺の次は、誰ですか」
要は答えた。
「まだ、決まっていません。台湾の選手を、一人見ています」
「守れますか」
「守れます」
「戻りますか」
要はそこで少し間を置いた。
「三年、見ないと分かりません」
李濬浩がまた笑った。
「正直な人。……いいです」
「すみません」
「謝る、だめです」
李濬浩は缶の縁を指で拭いた。
「三年前。俺、日本語、読めない。契約書も、読めない」
「はい」
「でも、判、押しました」
李濬浩は言った。
「あなた、先に、数字を出した。点、じゃない。走った、距離」
李濬浩は缶を持ち替えた。
「……あれ、初めてでした」
李濬浩は体育館の壁のほうを見た。
「一年目の開幕。覚えてますか」
「はい」
「千五百人。二階、閉まってた」
「はい」
「去年の、最後。四千四百。二階、開いてた」
李濬浩は言った。
「俺、その、間に、いました」
そこでまた言葉を探した。今度は見つからなかったようだった。
「……三年。よかったです」
要はうなずいた。この選手が言おうとしたことは、その日本語の中には無かった。だが要には分かった。千五百と四千四百のあいだを走ったのは、この男だった。
二人はしばらく黙っていた。
夕方の風が駐車場の砂を少し動かしていた。
「ひとつ、頼んでいいですか」
李濬浩は言った。
「席の話です」
要は顔を上げた。
去年この選手は月五百円の札を一枚出していた。いちばん小さい札だった。屋号の無い名前だけの札だった。店を持たない人の札は浜口が断ってきたが、選手に頼まれたこの一枚だけは掛けた。掛かっている場所は二階の通路に近い二枚目の板の端だった。札は出した順に掛ける。それが鍬形の決めたルールで、要は一度も動かしていない。
李濬浩の札の隣が、三年あの子の席だった。
陸という名前だった。
「あの子。俺の名前、消えたら。……来なく、なりますか」
「……」
「俺、あの子と、喋ってない。一回も」
李濬浩は言った。
「日本語、下手だから。……試合の前。手、上げる。それだけ」
李濬浩は片手を少しだけ上げてみせた。肩より低い、小さな上げ方だった。
「三年、それだけです」
要は缶を持ったまま何も言わなかった。
「札、残せませんか」
李濬浩は言った。
「金、俺が払います。一年、六千円。……次のクラブでも、払えます」
(……切った男に金を出させるのか)
要の側から更新しないと決めたのは、この選手が初めてだった。
「協賛は、続けられます。札も残します」
李濬浩は缶を持った手を下ろした。
「ただ、あなたがここで走ったことを、札とは別に残したいんです」
要はそこで一度止めた。
「そちらは、考えさせてください」
李濬浩は缶を飲み干してゴミ箱に入れた。ボタンが二つ光らない自動販売機の横に、まだ新しいゴミ箱が置いてある。去年、要が買ったものだった。
「三年、ありがとうございました」
李濬浩は言った。三年でいちばん、つかえなかった日本語だった。
要は頭を下げた。
顔を上げたとき李濬浩はもう歩き出していた。背中はコートのときと同じだった。走って戻る男の、戻り方の背中だった。
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