第150話 あれから、一年です
五月の練習場は床が半分だけ新しかった。
去年の秋に張り替えたぶんが、入口から中央まで。そこから先は二年前のままだった。継ぎ目で色が変わっている。新しいほうが少しだけ明るい。
シーズンが終わって、二週間が経っていた。
要実はその継ぎ目の上に立っていた。選手はいない。ボールも出ていない。四月の最終節に四千四百十二人が入った建物は、いまはただの床が半分新しい体育館だった。
奥で音がした。
宮里澪がテーピングの箱を段ボールに移していた。シーズンが終わると、この人はまず道具を数える。使った分と残った分を一つずつ数えてから片付ける。三年、同じだった。
「要さん」
宮里は手を止めずに言った。
「一枚、いいですか」
いつもの紙だった。
「レイの膝です。一年ぶんです」
要は受け取った。周径と可動域と着地の左右差が、月ごとに並んでいた。線はほとんど動いていない。
「保ちました」
宮里は言った。
「六十試合、一度も離脱していません。十八分を、一度も破っていません」
「はい」
「私の仕事としては、成功です」
宮里は段ボールの口を折った。
「もう一枚あります」
二枚目は東悠真の走行距離だった。
一年前に見たのと同じ形をしていた。合計は減っている。第四クォーターの後半の五分だけが、増えている。増え方は去年より大きかった。
「去年、限界ですと申し上げました」
宮里は言った。
「あれから、一年です」
要はその紙を見ていた。
一年前、要はこの数字に答えを出せなかった。四枚目の外国籍は獲れない。金が無い。東を休ませればその五分を誰かが埋めることになる。誰が埋めるのか。宮里は答えなかった。それは宮里の仕事ではなかった。
一年、要はその問いを持ったまま歩いた。
そのあいだに協賛が六百十軒になった。配信を始めて外した。一月で止めて千四百万を捨てた。四月の最終節に一日だけ、九十四万円の黒字が出た。三年で初めてだった。
東の五分はそのままだった。
「東さんは、来季で四年目です」
宮里は言った。
「番場さんは、十九年目です。あの膝は、私が三年、毎日触っています。触っているから、いつ終わるかも、だいたい分かります」
宮里はそこで一度止めた。
「東さんの膝も、数えています。二年、数えています」
要は顔を上げた。
「もう、始まっています。痛みは、まだ出ていません。……出る前に止めるのが、私の仕事です。三年前、そう申し上げて、雇っていただきました」
「はい」
「志水のときは、止められました」
宮里は言った。
「止めても、代わりがいたからです。前線が一枚減って、その分は負けました。それでも、止められた」
宮里は段ボールの角を揃えた。
「東さんは、止められません。止めれば、あの五分が空きます。空いた五分は、誰かが走ることになる。走れるのは、いま、東さんしかいません」
「……」
「壊れる前に止めるのが、私の仕事です。三年、そうしてきました。でも、一つだけ、止められないものがあります」
宮里は言った。
「代わりのいない選手の膝です」
要はその言い方をしばらく聞いていた。
宮里は脅していない。この人は三年、一度も脅したことがない。ただ自分にできることの端を正確に言うだけだった。端の外側は要の領分だった。
「一つ、聞いていいですか」
要は言った。
「東を、あと何年もたせられますか」
宮里は段ボールを持ち上げた。
「代わりを連れてくれば、五年です」
宮里は言った。
「連れてこなければ、二年です」
宮里が段ボールを抱えて出ていったあと、要はもう一度床の継ぎ目のところに立った。
去年の秋、床を張り替える金は半分しか無かった。全部やるには千二百万かかると言われて、要は入口側の半分だけを頼んだ。選手が最初に足をつけるのは、そちら側だった。
残りの半分は今年もそのままだった。継ぎ目の向こうはまだ二年前の色をしている。
要は事務室に戻った。
机の上に、三月に書いた紙が一枚あった。一行しか書いていない。
箱を建てる。
その下はまだ白いままだった。
要はその紙を横へ寄せた。代わりに選手登録の一覧を出した。
来季の枠が印刷されている。
日本人選手の欄は十二人ぶん埋まっていた。名前と背番号と契約の年数。三田村の行が消えている。中位のクラブから話があって、出ていった。向こうでは十五分もらえる。要は止めなかった。
十二人の中に苅田悟の名前がある。今年で三年目の更新だった。去年、和久井が持ってきた二十二枚の資料が、唯一説明できなかった名前だった。要はその行を一度見て次へ移った。
欄の下に四行あった。外国籍の登録枠だった。
一行目、ダリオ・サントス。二行目、マーカス・レイ。三行目、アジア特別枠。李濬浩。
四行目は空いていた。
三年、空いたままだった。この欄に書ける名前を、要は一度も持ったことがない。書けば金が要る。金は去年の二月に尽きている。
要はその空欄をしばらく見ていた。
窓の外はまだ明るかった。五月の海は冬より白い。
要は鉛筆を持ったまま、四行目には何も書かなかった。
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