第146話 それ、物乞いになりませんか
プレーオフが消えて、二日が経っていた。
最終節まで二週間を切っていた。
「前売り、二千百枚です」
浜口が言った。
「去年の同じカードが、最終的に三千六百。今年は、伸びてます。……でも、このままだと、三千八百で止まります」
四千百に三百足りない。
要実はその数字をしばらく見ていた。
「浜口さん」
「はい」
「四千百を、出します」
浜口は意味が分からないという顔をした。
「出す、というのは」
「町に、言います。この建物が赤字にならないのは、四千百人からです、と」
事務室が静かになった。
「……うちの台所を、町に見せるんですか」
「はい」
「二年、隠してきたやつですよ」
「隠してはいません。言わなかっただけです」
要は言った。
「言わなかったのは、言う理由が無かったからです。今は、あります」
佐伯涼真が書類から顔を上げた。
「要さん」
「はい」
「……それ、物乞いになりませんか」
言ってから佐伯は少し身構えた。要に正面から反対したのは、初めてだった。
要はその顔を見て、こう言った。
「言ってくれて、ありがとうございます」
「……いえ」
「一月に、僕は、あなたに言いました。最初の一回が遅れるほど、二回目も遅れると」
要は言った。
「これが、二回目です」
それから要は答えた。
「物乞いになる書き方は、あります。うちが苦しいから来てください、と書けば、そうなります」
「はい」
「書かないでください」
要は言った。
「数字だけ、出してください。四千百人。以上です。頼み事は、書かないでください」
佐伯が少し黙った。
「……頼まないんですか」
「頼みません」
「なぜですか」
要は言った。
「頼んだら、一度きりです」
浜口がまだ納得していない顔をしていた。
「同情で来た客が、四千百人ぶん入っても」
浜口は言った。
「来季、その人たちは、来ませんよ」
「来ません」
要はそこは否定しなかった。
「同情で来た客は、次に来ません。……でも」
要は言った。
「数字を知った客は、次も数えます」
蔵本誠が手帳を閉じた。
「要さん。一つ、いいですか」
「はい」
「あの札を出してる六百十軒に、その数字を見せるのは、私は賛成です」
蔵本は言った。
「うちの店が、いくらの一部なのか。……あの人たちは、それを知らずに、三千円と五千円を出してます」
蔵本は要の顔を見た。
「三年、この町の人はあんたの財布のことを、一度も知らずに金を出してきたんです」
要はうなずいた。
「もう一つ、決めることがあります」
要は言った。
「当日券です。三百席、残します」
浜口が椅子から少し身を起こした。
「……逆じゃないですか。前売りで、確実に埋めましょう」
「埋めません」
「なぜですか」
「三年前、この町の人は、思いつきで来る習慣を失いました」
要は言った。
「五千の箱に千五百人しかいなかったころ、誰も、その日の朝に『行くか』とは言わなかった。行っても、席が余ってると分かってたからです」
要は紙に三百と書いた。
「取り戻すには、思いつきで来られる席が、要ります。前売りで全部埋めたら、その日の朝に決めた人が、入れません」
「その三百が、売れ残ったら」
「売れ残ります」
要は言った。
「四千百に、届きません」
蔵本が少し笑った。営業の男が笑う場面ではなかった。
「……前売りのほうが、確実ですよ」
「はい」
「私は、確実なほうを、三十年やってきました」
蔵本は手帳をしまった。
「やってみましょう」
その夜、要は自転車で帰った。
二月に車を売ってから、通勤はずっとそれだった。海沿いの道は夜は暗い。
途中、潮見銀座商店街の入口を通った。
シャッターが半分下りている。開いている店の明かりがいくつか、まだ点いていた。
その明かりの中に、米屋があった。
要は止まらずに、通り過ぎた。
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