第144話 箱の話は、いつ始めますか
潮見に戻って三日目に、要実は浜口の机に紙を一枚置いた。
三十と書いてある。その下に百三十。
「湊川の稼働です。試合が三十で、残りが百」
浜口はその紙を見て、それから要を見た。
「……去年、私が言った数字を、覚えてますか」
「二十一日です」
要は言った。去年、財前と会ったあとに浜口が出した数字だった。うちはあの体育館の借り手で、試合以外に押さえられたのは年に二十一日。上の基準は八十九日。市民の予約が先。
「八十九は、上のリーグに上がるための線です」
浜口は言った。
「箱を建てて、借りた金を返すなら、その線では足りません」
浜口は電卓を叩いた。五千席の箱を建てる金を仮の額で置いた。年に返す額を出した。試合の三十日で稼げる分を引いた。残りを一日の稼ぎで割った。
「百九日です」
浜口は言った。
「試合の三十日と、それ以外の七十九日。……八十九の上に、二十、積まないと返せません」
百九。要はその数字を紙に書いた。三十、八十九、百九。三つの数字が下から順に並んだ。
「今の体育館で、あと五十八日、押さえられたら」
要が言いかけると、浜口は電卓を置いた。
「押さえられません。市民の予約が先です。……去年、そう申し上げました」
「空いている日を、数えに行きます」
要は言った。数えるのは要の仕事だった。
体育館の管理事務所は一階の奥にある。市の外郭団体の職員が二人いて、要は三年、使用料の話でしかその部屋に入ったことがなかった。
壁に一年ぶんの予定表が貼ってあった。
要はそれを端から読んだ。
土曜と日曜はほとんど埋まっていた。バレーボール協会の大会。卓球の市民大会。剣道の昇段審査。潮見の試合はその隙間に三十日入っていた。
平日の夜も埋まっていた。バドミントンのサークル。ママさんバレー。学校の体育館が使えない日の中学の部活。
一月は成人式で二日。四月は高校の大会で三日。選挙の年は開票所になる。九月は避難訓練。
要は空いている日を数えるつもりで来ていた。
空いている日は無かった。
「うちの試合以外は、全部、市民の方です」
職員が言った。責める口調ではなかった。三年、使用料を払ってきたクラブの人間に事実を言っただけだった。
「試合の日は、朝から丸一日、押さえていただいてます。……正直に言いますと、その三十日を空けてほしいという申し込みのほうが、多いんです」
要はその予定表をしばらく見ていた。
三十日を空けてほしい。要が三年増やそうとしてきた日数は、この部屋では町の体育館を占めている日数だった。
要は礼を言って部屋を出た。
通路の壁に六百十枚の札が掛かっている。その向こうに事務室の入口があって、その上に五千百二人の写真が掛かっている。
要は写真の下で足を止めた。
空いていると思っていた。
試合の三十日と去年の二十一日で、五十一日。八十九まで、三十八足りない。百九まで、五十八足りない。要は足りない日数を、空いている日数だと思っていた。埋めればいい日数だと思っていた。
埋めればいい日は、一日も無かった。全部、誰かが先に使っていた。
金を積めば増える数字ではないと浜口は去年言った。要はそれを金の話だと思って聞いていた。金の話ではなかった。この建物は町の建物だった。町の建物をクラブが百九日使うということは、今その日を使っている人をどかすということだった。
事務室に戻ると浜口が電卓を片付けていた。
「……数えられましたか」
「はい」
要は言った。
「空いてる日は、ありませんでした」
浜口は何も言わなかった。言わないことで去年から知っていたと分かった。
「浜口さん。七十九日は、この建物の中では、作れません」
要は言った。
「作るなら、外です」
浜口は電卓を引き出しに入れた。入れてからこう言った。
「それが、蒲生さんの言った箱です」
要はうなずいた。
その日、要は紙に何も書かなかった。三十、八十九、百九。三つの数字の下に書くべき一行を、要はまだ持っていなかった。
箱の話は、いつ始めますか。
蒲生の問いに要はまだ答えていなかった。ただ答えの置き場所がこの建物の中には無いことだけが、分かっていた。
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