第138話 気がする、じゃ使えねえ
湊川ガルーダにホームで負けた、三日後だった。
和久井蒼の部屋のドアが、ノックされた。
窓の無い、元・倉庫の部屋だった。ノックする人間はめったにいない。
郷田学が立っていた。
「入っていいか」
「……どうぞ」
椅子は一つしかなかった。郷田は座らず、壁に背をつけた。
「お前に、紙を渡したよな」
「八年分ですね。はい」
「あの中に、試合ごとの交代が書いてある」
郷田は言った。
「三田村亮を、出した日も、全部だ」
和久井はパソコンに手を伸ばしかけて、止めた。郷田がまだ喋ると分かったからだった。
「六年、あいつを、ほとんど使ってねえ」
郷田は言った。
「守れねえからだ。三本入れても、五本やられる。それは、間違ってねえ」
「はい」
「……だが、時々、悪くなかった日がある」
郷田はそこで少し言い淀んだ。
「短く出した日だ。三分か、四分か。そのとき、点差が動いてなかった気がする」
和久井は黙っていた。
「気がする、なんだよ」
郷田は自分の言葉に、苛立ったような声を出した。
「俺は、二十年、これで飯を食ってる。だが、俺の記憶は、都合のいい日だけ残る。あいつが決めた日は覚えてて、やられた日は忘れてる。そんなもんだ、人間は」
郷田は壁から背を離した。
「だから、手で数えてきた。数えねえと、俺は自分を信用できねえ」
「……はい」
「六年分は、多すぎて、数えきれなかった」
郷田は和久井を見た。
「調べられるか」
「何を、ですか」
「あいつを、短く出した日。あれが、俺の気のせいかどうか」
和久井が結果を持ってきたのは、翌日の夕方だった。
紙は二枚だった。
「気のせいでは、ありませんでした」
和久井は言った。
「六年で、二分未満の出場が、二百四十一回。そのあいだの失点は、平均より低いです」
郷田は紙を受け取った。しばらくそこを見ていた。
「……そうか」
短い声だった。
「ただ」
和久井が続けた。
「これは、はっきりした結論では、ありません。二百四十一回の状況が、ばらばらです。点差も、相手も、時間帯も違う。私の手法では、ここまでしか言えません」
「はっきりしてたら」
郷田は言った。
「六年も、迷ってねえよ」
和久井は二枚目を出した。
「もう一つ、出ました。こちらは、はっきりしています」
「なんだ」
「相手が三田村さんを狙い始めるまでに、平均で三ポゼッション半かかります。時間にして、二分弱です」
郷田が顔を上げた。
「守備の穴は、あるだけでは、穴になりません」
和久井は言った。
「気づかれて、狙われて、初めて穴になります。……二分は、気づかれるまでの時間です」
郷田はその紙を両手で持っていた。
「これは、俺の紙からは出ねえな」
「出ません」
和久井は言った。
「相手のスカウティングの速さなので。私が、他所の試合から取りました」
「……そうか」
郷田は二枚を重ねた。
「一枚目は、俺が六年見てたことだ。二枚目は、俺が見えなかったことだ」
「一つ、伺っていいですか」
和久井が言った。
「二分という長さは、これで裏付けられます。でも、どの二分かは、私には出せません。相手がまだ気づいていない場面がどこかは、計算になりません」
「知ってる」
郷田は言った。
「そこは、俺の領分だ」
郷田はドアに手をかけた。
「和久井」
「はい」
「この話は、誰にも言うな」
和久井が少し驚いた顔をした。
「要さんにも、ですか」
「言うな」
郷田は言った。
「相手は、あいつが打てるのを知らねえ。それが武器だ。うちの中で話が回れば、どっかから漏れる。……誰も知らねえまま、一回だけ使う」
和久井はパソコンの画面を閉じた。
閉じてからこう聞いた。
「郷田さん。六年、迷ってらしたんですよね」
「ああ」
「なぜ、今なんですか」
郷田はドアの手前で止まった。
「ガルーダに、八点差だった」
郷田は言った。
「去年は、二十四点だ。……あと八点、どっかから持ってこなきゃ、届かねえ」
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