第120話 線を引いた紙
「東悠真さんのことです」
和久井は言った。
「あの選手を残したのは、数字が示したからですか」
「はい」
「では、質問を変えます」
和久井は真っすぐに要を見た。狭い部屋の暗い光の中で、その目だけが、はっきりしていた。
「先に残すと決めていて、あとから数字を探した、ということは、ありませんか」
要は答える前に少し考えた。
考えたのは答えを作るためではなかった。順番を、正確に思い出すためだった。東を見たのが先か、数字を見たのが先か。それは、要にとって、大事な順番だった。
「東は、数字が先です」
要は言った。
「僕は、あの人がどういう選手か、知りませんでした。名前も知りませんでした。数字を見て、それから映像を見ました」
「分かりました」
和久井はうなずいた。
「では、苅田悟さんは」
部屋が静かになった。風の音だけが残った。
「あの人は、数字が出ません」
要は言った。
「出場が、シーズンで十一分でした。何を計算しても、意味のある数字になりません」
「はい。だから、説明がつかないんです」
和久井は言った。
「私は、二週間、考えました。この一件だけ、モデルの外にあります」
「作ろうと思えば、作れました」
要は言った。
和久井の目が少し動いた。
「あの人が出ていた十一分のあいだ、失点が少なかったんです。母数が小さいので、偶然です。でも、その数字を並べれば、もっともらしい理由になります」
「……使わなかったんですね」
「使いませんでした」
要は言った。
「使ったら、来年、同じやり方で、誰かを切ることになるので」
和久井はしばらく黙っていた。
それから、こう聞いた。
「では、なぜ残したんですか」
要は答えた。
「分かりません」
「……」
「あの人がいると、ロッカーの空気が変わります。それは、僕が見た印象です。数字ではありません。残す理由を、僕は、今も説明できません」
要は机の引き出しを開けた。
いちばん奥に古い紙が一枚あった。三年近く前のものだった。角が丸くなっている。何度も、引き出しの奥で、出したりしまったりされた紙だった。
数字が並んでいて、その一つに、線が引いてあった。
「これです」
要はそれを机に置いた。
「二年半前、僕が作れた数字です。線を引いて、使わなかった」
和久井はその紙を見た。すぐには手を伸ばさなかった。
「……捨てなかったんですね」
「捨てられませんでした」
要は言った。
「理由は、今も分かりません」
和久井が鞄の持ち手から手を離した。ずっと握っていた手が、初めて、開いた。
「その答えが、聞きたかったんです」
彼女は言った。
「私がいちばん怖いのは、データが人を切ることじゃありません。逆です」
「逆」
「数字は、残す理由にも、切る理由にも、両方使えてしまう」
和久井は言った。
「作れる人間が、作りたい結論を先に決めていたら、どちらも作れます。三年半、私は、それをやっていた側です」
彼女は要の顔を見た。
「だから、分からないものを、分からないまま残したという人のところで、働きたかったんです」
「一つ、お願いがあります」
和久井が言った。紙を指していた。
「これ、いただけますか」
「……何に使うんですか」
「使いません」
和久井は言った。
「机に、置いておきます」
要は、雇うと言った。
言ってから、自分の声が、思ったより低かったことに気づいた。
その夜、浜口が一枚の紙を持ってきた。
リーグに毎年出す常勤の名簿だった。和久井の名前を足すために、出してきた紙だった。
紙には十三人いた。要、浜口、宮里、佐伯、蔵本。試合の運営と、受付と、売店と、用具と、通訳。大洋のころから残っている人が、六人いた。事務室に机のある五人のほかに、この建物では八人が働いていた。
夜の事務室に残っているのは、そのうち四人だった。
「十三で、ぎりぎりです」
浜口は言った。
「一人減ると、上の紙が通りません。……和久井さんで、十四になります」
要は名簿を見た。二年半、要は一人だったと思っていた。一人で始めた場所に、紙の上では最初から十三人いた。夜まで残る人間の数と、名簿の人数は、違うものだった。
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