第119話 なぜ、うちに
和久井蒼は木曜の午後に来た。
二十代の後半に見えた。荷物は書類鞄が一つ。それ以外は何も持っていなかった。
事務室に椅子が足りず、要は会議に使っている狭い部屋に通した。窓の小さい、暗い部屋だった。
「前職を、伺っても」
「スポーツデータの分析会社です。三年半」
和久井は、鞄から名刺を出しかけて、やめた。もう無いのだと要には分かった。蔵本と同じ手つきだった。この町に来る人間は、なぜか無い名刺を一度出しかける。
「クラブの委託を受けて、資料を作ってました。競技のほうではなく、フロント向けです」
「どんな資料ですか」
和久井は少し間を置いてから答えた。
「契約更改の資料です」
部屋の窓の外で風が鳴っていた。
「誰の年俸を下げられるか。誰を外しても、勝率がいくつしか落ちないか。……そういうものを、毎年、十数クラブぶん作りました」
「よく出来ていたんでしょうね」
「はい」
和久井はそこは否定しなかった。謙遜もしなかった。出来ていたことと、辞めたことは、この人の中で別のことのようだった。
「三年目に、私の資料で外された選手が、引退しました。二十七歳でした。私の名前は、その人には知らされていません。当然です」
和久井は鞄の持ち手を握っていた。
「その年に、辞めました」
「辞めて、何を」
「二年、何もしませんでした」
和久井は言った。
「クラブから、依頼は来ました。前より、いい条件で。……全部、断りました。同じ資料を、また作ることになるので」
「二年、収入は」
「貯めていました。人を切る資料は、よく稼げたので」
和久井はそこは淡々と言った。稼げた仕事を辞めて、その貯金で、二年、何もしなかった。その二年のあいだに、この人は潮見の二十二件を調べていた。稼げなくなる場所を探すために、稼いだ金を使っていた。
「うちに来る理由が、まだ分かりません」
要が言った。
「うちも、選手を外します。去年、一人、外しました」
「知ってます。三十歳の可もなく不可もない選手ですね」
和久井は即答した。潮見の去年の判断を、この人はもう調べていた。
「あの判断は、私の資料でも出ます。むしろ、遅いくらいです」
「……」
「私が驚いたのは、そこじゃありません」
和久井は資料の一枚を出した。要が読んだのと同じものだった。折り目が要の持っている一枚と同じ位置についていた。
「二十四のクラブは、データを、誰を切るかを決めるために使っています。私が三年半、作っていたのも、それです」
「はい」
「潮見だけが、逆でした」
和久井は指で表を押さえた。
「数字に出ない選手を、残すために、数字を使っている」
彼女は顔を上げた。
「そんなクラブ、他に無いので」
要は待遇の話をしようとした。
和久井が、先に言った。
「額は、後で結構です。……先に、一つだけ、聞かせてください」
その声は、面接に来た人間の声ではなかった。二年調べて、それでも分からなかったことを直接確かめに来た人間の声だった。
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