第115話 米屋の札が、いちばん小せえ
札の入れ替えが終わって、十日が経っていた。
壁は揃わなくなっていた。
三千円の札がいちばん多い。その間に、一・五倍の五千円が挟まる。入口の正面に、二倍の一万円が、四枚。壁は賑やかになった。賑やかになって、揃わなくなった。
蔵本誠が、それに気づいたのは、総菜屋に寄ったときだった。
主人は三千円のままだった。値上げの話には乗らなかった。乗らなかったことを、恥じてもいなかった。
「うちは、これでいい」
主人は言った。
「これで五年、やってきたんだから」
蔵本は、頭を下げて、帰ろうとした。無理に段を上げさせる人ではなかった。
「蔵本さん」
主人が呼び止めた。
「ひとつ、言っとくわ」
「はい」
主人は少し言いにくそうにしていた。言うか言うまいか、迷った顔だった。
「壁、見たか」
「……見ました」
「米屋の札が、いちばん小せえ」
蔵本はその場から動けなかった。
「あそこは五百だ。前からだ。それは知ってる」
主人は言った。
「でもな。前は、全部おんなじ大きさだったんだよ。五百も、三千も。並んでたら、分かんなかった」
主人は暖簾の外を見た。
「今は、分かる」
蔵本は店を出た。出てから、しばらく歩けなかった。
その週、商店街で、もう一つ話が出た。
札を、大きさの順に並べ替えたらどうか、という話だった。
言い出したのは、去年から出している店ではなかった。今年、五千円で新しく入った店だった。悪気は無かった。そのほうが見栄えがいい、というだけの話だった。
だが、その話は二日で商店街を一周した。
蔵本は、木曜と金曜、事務室に来なかった。
回る予定の紙は机の上にあった。十七軒ぶんだった。順番も、天気の欄も、いつも通りに用意されていた。用意されたまま、机の上にあった。
要実が見つけたのは金曜の夜だった。
体育館の一階の通路。壁の前だった。
蔵本はそこに立っていた。上着を着たままだった。
「蔵本さん」
蔵本は振り向かなかった。
「要さん。五年前の話を、していいですか」
「はい」
「私が集めた協賛金は、額が大きい店ほど、大きかった」
蔵本は言った。
「会社が逃げたとき、損も、額が大きい店ほど、大きかった。米屋が、いちばん出してた。だから、いちばん損した」
蔵本は壁の端のほうを見ていた。
小さい札がそこにあった。
「今度は」
蔵本は言った。
「額が大きい店ほど、札が大きい」
「……」
「私は、また、金の順に、町を並べてます」
要はその隣に立った。
壁の札は、上から下まで、ばらばらだった。木があり、プラスチックがあり、子どもの手書きがあった。それが大きさでも割れ始めていた。
「大きさを、やめますか」
要は聞いた。
蔵本はしばらく答えなかった。
「……やめたら、五千と一万を出した人の理由が、無くなります」
「はい」
「やめなかったら、五百の店が、ずっとあのままです」
蔵本は言った。
「私は、答えを持っていません」
要も持っていなかった。
二年半前、要は屋台を出した。客が金を使う理由を作った。去年、子どもを呼んだ。親が来る理由を作った。同じ年に札を作った。町がクラブを持つ理由を作った。
理由を作ることはできた。
作った理由が、人と人のあいだに段差を作ることまでは、要は考えていなかった。
二年半前、屋台を出したときは、誰もそれを段差だとは言わなかった。焼き鳥を買う人と買わない人がいた。それだけだった。子どもを呼んだときも、来る親と、来ない親がいた。それだけだった。
札は違った。
買った屋台は食べれば消える。子どもは試合が終われば帰る。だが、札は、大きさのまま一年、壁に掛かっている。消えない理由は消えない段差になる。要が作ったのは、初めて壁に残る理由だった。
要は、その夜、何も言わなかった。
蔵本の隣に、しばらく立っていた。
小さい札には、屋号だけが書いてあった。米屋の名前だった。
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