第112話 木曜を、覚えてた
その鉄工所は港のいちばん端にあった。
大洋重工の下請けだった。船体の部品を作っていた工場が、今は農業機械の部品を打っている。作るものが変わっても、機械の音は同じだった。金属を打つ音が、事務所まで届いていた。
社員は十一人だった。
社長は七十近い男だった。名前を山根といった。
蔵本が入っていくと、山根は事務所の椅子から立ち上がった。立ち上がって、しばらく黙っていた。
「……生きとったか」
蔵本の返事が遅れた。
「はい」
「切られたんだろ」
「はい」
「うちもだ」
山根は椅子を勧めた。
要は少し離れて座っていた。この部屋では要は客ですらなかった。蔵本の連れ、というだけだった。それでよかった。この部屋の話に、要の出る幕は無かった。
話はなかなか協賛にならなかった。五年前に、どこが潰れて、どこが残ったか。誰が市外へ出て、誰が残ったか。そういう話ばかりだった。
蔵本は一つずつ覚えていた。名前も、屋号も、順番も。山根がある名前を出すと、蔵本がその家の廃業した年を言った。山根が別の名前を出すと、蔵本がその家の息子が継いだことを言った。二人の話は二十九年ぶんの答え合わせのようだった。
一時間、そういう話をしてから、山根が言った。
「で、いくら出せばいい」
蔵本は三段の紙を出した。
山根はいちばん上を指した。
「これだ」
一万円だった。
蔵本が口を開きかけた。無理はしないでください、と言おうとしたのが、要にも分かった。十一人の工場に、月一万円は軽い額ではなかった。
山根が先に言った。
「蔵本さん。あんた、うちの休みの日を、覚えとったろう」
「……」
「二十年前だ。うちは、木曜が休みだった。工場の都合でな。よそから来る営業は、そんなもん覚えちゃいねえ。木曜でも平気で来て、閉まった戸を叩いて帰った」
山根は、机の引き出しを開けて、湯呑みを二つ出した。三つではなかった。要のぶんは無かった。この話は二人のものだった。
「あんただけ、木曜には一度も来なかった」
「……はい」
「そんだけだ。クラブのためじゃねえ。あんたが二十九年、うちの木曜を覚えてたからだ」
帰りの車で、蔵本は運転しなかった。要が運転した。
助手席で、蔵本は手帳を開いていた。開いたまま、書いていなかった。膝の上で、手帳が開いたままだった。
港を出るあたりで蔵本が言った。
「要さん。私は、あの手帳を五年、開かなかったんです」
「……」
「意味が無いと思ってました。会社が無くなったら、あんなもの、ただの紙です。日付と、天気しか書いてない」
要は前を見たまま運転していた。
「でも、木曜が残ってたんですね」
要が言うと蔵本は答えなかった。
「木曜を覚えてたのは、営業のためだったんです」
蔵本は言った。手帳を両手で持っていた。
「休みの日に行っても、契約は取れません。取れないと分かってて、木曜以外に行った。……最初は、そういう計算でした」
「今は」
「今は、分かりません」
蔵本は言った。
「計算だったものが、二十九年経つと、何だったのか、分からなくなります。山根さんは、覚えててくれた。……計算じゃ、あんな顔は、してもらえません」
要は、その言葉を運転しながら聞いていた。
値付けも、同じかもしれなかった。最初は、安く見つけるための計算だった。それが何年か経つと、計算だったのか、そうでなかったのか、要にも分からなくなる。李濬浩の隣に座る子どもの顔を思い出すとき、要は、それが計算だったとはもう思えなかった。
蔵本は、それきり黙った。信号で止まったとき、要が横を見ると、手帳に日付が書き込まれていた。天気の欄に、何と書いてあるかまでは、見えなかった。
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