第111話 今度は、鯨の名刺か
商店街は二週間で頭打ちになった。
軒数は限られている。上げられる店は上がり、上げられない店は上がらない。それで終わりだった。商店街の地図は、蔵本の手帳の中で、もう白いところが無くなっていた。
「次は、外です」
蔵本は言った。
「潮見に、まだ工場が残ってます。船をやめて、別のものを作ってるところが」
蔵本の手帳にはその一覧があった。二十九年ぶんの手帳だった。
社名。担当者。訪問した日。その日の天気。
「ここは、五年前は下請けでした。今は、何を作ってるか分かりません」
「調べますか」
「あるかどうかだけは、調べました」
蔵本は手帳のあいだから、紙を一枚出した。商工会の名簿の写しだった。手帳の一覧と突き合わせて、まだある会社に印が付いている。無くなった会社は、線で消してあった。
「二十九年で、三十七社。名簿に残っているのが、二十二社です。……何を作ってるかは、名簿には載ってません。行けば分かります」
調べて分かるのは、あるか無いかまでだった。この町の工場が、船をやめて何を作り始めたかは、どの資料にも載っていない。行って、扉を開けて、油の匂いを嗅ぐしかない。それは、要が選手を見に行くのと、同じことだった。数字の外にあるものは足で確かめる。
最初の三軒は門前払いだった。
扉の前で、名乗った瞬間に断られた。蔵本の顔を見て、断った家もあった。要は少し離れたところでそれを見ていた。
四軒目で、要は初めてその場に立ち会った。
工場の事務所は油の匂いがした。応対に出た五十代の男は、蔵本の顔を見た瞬間に、椅子から立ち上がらなかった。立ち上がらないことが、この町の返事の一つだった。
「蔵本さん、だよね」
「はい」
「大洋の名刺で来た人が、今度は鯨の名刺か」
事務所の蛍光灯が一本、切れかけて瞬いていた。その光の下で蔵本は頭を下げた。何も言い訳をしなかった。
「お時間を、いただいてすみませんでした」
それだけ言って、蔵本は事務所を出た。粘らなかった。食い下がりもしなかった。
外に出ると風が強かった。
「言われ慣れてます」
蔵本は言った。
「今日みたいなのが、あと三十軒はあります」
要は聞いた。
「代わりましょうか。僕が行けば、その一言は出ません」
蔵本は首を振った。
「あの一言を言わせないと、その次が始まらないんです」
「……」
「あの人、二回目には、座って話を聞きます。一回言った人は、二回目は言わない。三十年、そうでした」
要はその言葉をしばらく考えていた。門前払いは終わりではなかった。蔵本にとってはそれが始まりだった。一度、恨みを言わせる。言わせてから、また来る。要が選手を二度見に行くように、蔵本は、同じ家に二度行く。
五軒目で、蔵本は一件、決めた。
月五千円だった。この家の男は、蔵本の顔を見ても、椅子から立った。何も言わなかった。ただ、三段の紙の真ん中を指した。
車に戻ってから、要は聞いた。
「みんな、真ん中を選ぶんですか」
「多いです」
蔵本は言った。
「五千を選ぶ人は、三千だと安く見られる気がして、一万だと見栄だと言われる気がする。真ん中は、どっちにも言われない額です。……いちばん、選ばれます」
「三段作ったのは、真ん中を選ばせるためですか」
「半分は、そうです」
蔵本は少し笑った。
「もう半分は、一万を選ぶ人に一万をちゃんと選ばせるためです。山根さんみたいな人に、五千円で我慢させたくない」
要は、その言い方を覚えておいた。段は、下を上げる仕掛けではなかった。それぞれの人に、それぞれの額を、恥ずかしくなく選ばせる仕掛けだった。
蔵本は手帳に書いた。日付と、社名と、担当者の名前と、その日の天気を。
風が強い、と書いていた。
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