第109話 三段の階段を、書いた
蔵本誠が潮見に来て、十日が過ぎた。
回った軒数は百六十を超えていた。新しく札を出したのは二十九軒。悪くない数字だった。要が一人でやっていたころの倍の速さだった。
だが蔵本は十日目の夕方に別の紙を出した。
「要さん。件数を倍にしても、たぶん、足りません」
「……はい」
「三百二十七を六百五十にして、増える金は、月百万足らずです。あなたが欲しいのは、その桁じゃないでしょう」
要は否定しなかった。二月に尽きる私財と、四千二百までの差。その桁は、月百万では、埋まらない。
「単価を、上げます」
蔵本は言った。
「三千円の店を、五千円に。出せるところは、一万円に」
要はすぐには答えなかった。
「それは、しません」
「理由を、伺っても」
「去年、僕は、こう言って回りました。預ける金じゃありません、嫌になったらいつでも外せます、と」
要は言った。
「一年経って、額を上げてくださいと言いに行くのは、話が違います」
蔵本は机の上で手を組んだ。責める顔ではなかった。営業の顔だった。三十年、人に額を出させてきた男の顔だった。
「値上げをしろとは、言ってません」
「同じことです」
「違います」
蔵本は紙を裏返した。そこに、三段の階段が書いてあった。手書きの簡単な図だった。
「今、三千円しかないんですよ。選べないんです」
「……」
「この町の人は、頼まれた額しか出しません。逆に言えば、頼まれてない額は、出したくても出せない。五千円出したい店が、三千円で止まってる。それは、遠慮じゃない。選択肢が無いだけです」
蔵本は階段の二段目を指で叩いた。
「上げるんじゃありません。段を、作るんです」
要はその紙をしばらく見ていた。
理屈は通っていた。通っていたが、要には、それが人の顔に見えていなかった。数字としては分かる。だが、五千円を選ぶ人の顔が、要には浮かばなかった。
「……分かりません」
要は言った。
「五千円を選ぶ人が、この町にいるかどうかが、僕には分かりません」
蔵本は初めて少し笑った。今度は少しだけうまく笑えていた。
「じゃあ、一軒だけ、やらせてください」
「どこですか」
要が聞くと蔵本は手帳を開いた。二十九年ぶんの天気まで書いてある手帳だった。
「焼き鳥屋です」
「……鍬形さんですか」
「はい」
要は少し驚いた。いちばん断られにくい店から始めるのが、営業だと思っていた。鍬形は断らない。断らない店で試しても、意味がないのではないか。
「鍬形さんなら、五千円と言えば、出します」
要は言った。
「だから、駄目なんじゃないですか」
「逆です」
蔵本は言った。
「出すと分かってる店で、私は段の付け方を間違えたくない。……間違えても、鍬形さんは、怒りません。怒らない人の前で、間違え方を先に覚えます」
要はその言い方をしばらく考えていた。断らない店は営業の練習台ではなかった。間違いを、赦してくれる店だった。蔵本は赦される場所を先に選んでいた。
その週、商店街のほうから、別の話も流れてきた。
浜口が渋い顔で持ってきた。
「大洋の人間を雇ったらしい、って話が回ってます」
「はい」
「五十過ぎのおっさん一人雇って、金が増えるのか、とも。……言ってるのは、去年、札を出してない店です」
要はうなずいた。
「言われるのは、僕じゃなくて、蔵本さんです」
「そうです」
浜口は言った。
「あの人、それを分かってて、朝八時前に出て行きます」
要はその朝、少し早く出てみた。
蔵本はもういなかった。机の上に、回る順番の紙が置いてある。十七軒。米屋の名前は無かった。
蔵本は、米屋には行かない。要と、そう決めていた。決めた通りに、その一軒だけ、順番からきちんと外れていた。外し方に、三十年ぶんのきちんとしたものがあった。
要は、その紙を机に戻した。
「大洋の人間」と言われながら、この人は、いちばん自分を恨んでいる家の名前を、いちばん丁寧に避けていた。
――最後まで読んでくださって、ありがとうございます。
続きが気になったら、ブックマークしていただけると嬉しいです。
ページ下の★評価も、続きを書く力になります。




