第108話 五年ぶりの名刺
蔵本誠の入社は十月の最終週だった。
浜口が契約書を作った。給料の額を見て、蔵本が「これでいいんですか」と聞いた。ホームセンターより、少しだけ高い程度だった。
「うちは、これしか出せません」
浜口が言った。
「ただ、要さんの財布から出てる金ではありません。そこは、はっきりさせておきます」
蔵本は意味を測りかねた顔をした。浜口はそれ以上説明しなかった。要の私財と、クラブの金を分けること。それが浜口の筋だということは、蔵本にはまだ分からなかった。分からないまま、蔵本は判を押した。
事務室の机が一つ増えた。
去年、要と浜口の二人しかいなかった部屋に、宮里の机があり、佐伯の机があり、その隣に蔵本の机が入った。もう、余裕はなかった。机と机のあいだを通るのに、椅子を引かなければならなかった。
要は去年の協賛の記録を渡した。
三百二十七件。月三千円が中心で、いちばん安いのが五百円。合計は大口一社ぶんに少し届かない。
「これを、倍にしたいんです」
要は言った。
「今年の目標は、六百五十件です」
蔵本は記録をめくった。めくる速度が要より速かった。三十年、こういう帳面を見てきた指の速さだった。
「……三千円の店が、二百十四軒」
蔵本は言った。
「この人たち、たぶん、五千円出せます」
要が顔を上げた。
「三千円で頼んだから、三千円なんです。この町の人は、頼まれた額しか出さない。その代わり、頼まれた額は、意地でも出す」
蔵本は記録を置いた。
「値付けは、あなたがしたんですよね。……安すぎます」
要はその言葉を否定しなかった。安すぎる、と言われたのは、初めてだった。要はいつも、高すぎないか、無理をさせていないか、そればかりを気にしてきた。
蔵本は記録を最初のほうへめくり戻した。
「要さん。これ、領収書は」
「……出してません。振込か、集金で」
「三百二十七件の更新の声かけと、札の作り直しは」
「僕と、浜口さんで」
蔵本はうなずいた。責める顔ではなく、数えている顔だった。
「月五百円の店に、事務の手間が月五百円ぶんかかったら、集めるだけ赤字です」
要はその言葉を聞いていた。去年、要は集めた金がいくらになるかは数えた。集めたあとに、いくらかかるかは、数えていなかった。
「束ねたのは、たいしたもんです」
蔵本は言った。
「ですが、束ねたあとが、置きっぱなしだ。……そこが、私の仕事です」
その日の夕方、蔵本は自分の鞄から、古い手帳を出した。
黒い表紙がひび割れている。要が覗くと、細かい字で、日付と社名と、担当者の名前と、その日の天気まで書いてあった。
「三十年ぶんですか」
「二十九年です」
蔵本は言った。
「最後の一年は、書けませんでした」
書けなかった一年が、五年前の一年だった。会社が逃げて、蔵本が切られた、あの一年だった。手帳はその手前で止まっていた。
浜口が、名刺を届けたのは、その週の金曜だった。
安い紙だった。鯨の絵と、クラブの名前と、営業、という肩書き。その下に、蔵本誠、と入っている。
蔵本はそれを一枚、指で持った。
裏を返して、また表を見た。しばらく、そうしていた。
「五年ぶりです」
蔵本は言った。
「名刺入れは、捨てなかったんですよ。……捨てられなかった」
捨てられなかったのは、名刺入れだけではなかった。二十九年ぶんの手帳も、この人は捨てられなかった。捨てられないものを抱えたまま、五年、園芸用品の棚の前に立っていた。
その名刺を、蔵本は名刺入れにしまわなかった。上着の胸のポケットに入れた。
「名刺入れに入れると、また、しまい込む気がして」
蔵本は言った。
「五年、しまい込んでたんです。名刺入れごと、引き出しの奥に」
要はうなずいた。捨てないことと、しまい込むことは、この人の中で長いあいだ、同じことだった。今日、それが少し分かれた。胸のポケットは、しまい込む場所ではなかった。
月曜の朝、蔵本は八時前に事務室に来た。
要が着いたときには、もういなかった。机の上に、回る順番を書いた紙が置いてある。
一日で、十七軒だった。
そのいちばん最初に、焼き鳥屋の名前があった。
――最後まで読んでくださって、ありがとうございます。
続きが気になったら、ブックマークしていただけると嬉しいです。
ページ下の★評価も、続きを書く力になります。




