第107話 うちには、来るな
翌週、蔵本は潮見に来た。
だが、事務室には入らなかった。先に行くところがある、と言った。要には、どこへ行くのか、聞かなくても分かった。
米屋は商店街の中ほどにある。
間口が広く、店先に紙の袋が積んである。あの年、いちばん多く協賛金を出して、いちばん派手に裏切られた家だった。出した額が大きかったぶん、消えた額も、大きかった。
去年、鍬形が三度通って、ようやく札を出した。月五百円だった。それ以上は二度と信じない、と言われた。五百円は金額ではなかった。二度と信じない、という返事の金額だった。
蔵本は店の前に立った。
要は三軒手前で止まった。ついていくつもりだったが、蔵本が首を振った。
「私一人で行きます」
中で、何を話したのかは、要には分からない。
十分ほどで蔵本が出てきた。頭を下げて、出てきた。店の主人は外まで出てこなかった。暖簾の内側から、出てこなかった。
「なんて、言われましたか」
歩きながら、要が聞いた。
蔵本は正面を向いたまま答えた。
「あんたを雇うのは、あのクラブの勝手だ。だが、うちには来るな、と」
「……」
「もう一つ、言われました。札は、外さない、と」
蔵本はそこで少し笑った。笑い方がうまくなかった。鍬形の店でもうまく笑えていなかった。この人は笑い方を五年で忘れていた。
「外さないけど、俺の顔は見たくない。……そういうことです。そのままです」
要はしばらく黙って歩いた。
「蔵本さん」
「はい」
「うちの営業は、その家には僕が行きます」
蔵本が足を止めた。
「それでいいんですか」
「よくないです」
要は言った。
「でも、あの家に月五百円を出させたのは、鍬形さんが三回通ったからです。四回目を蔵本さんが行っても、たぶん、五百円が消えるだけです」
蔵本は、何か言いかけて、やめた。言いかけたのは、たぶん、反論ではなかった。礼のようなものだった。それもこの人はうまく言えなかった。
アーケードを抜けると、風が海の匂いになった。
「一つ、聞いてもいいですか」
蔵本が言った。
「なぜ、私なんですか。営業の人間なら、若いのがいくらでもいる」
要は答えた。
「若い営業は、名刺を配れます。蔵本さんは、名刺を出さなくても、あの人たちが顔を覚えてる」
「……悪い覚えられ方です」
「悪い覚えられ方をした人は、この町に、もう一人います」
蔵本が要を見た。
「大洋重工の役員です」
要は言った。
「あの人と蔵本さんは、同じ会社にいて、同じ町から金を集めて、同じ日に町を出た。違うのは、そのあと一軒ずつ回ったかどうかだけです。……この町の人たちは、その違いを五年、覚えてました」
「覚えていてほしくは、なかったです」
蔵本は言った。
「忘れてくれたほうが、楽でした。誰も私を知らない町で、肥料を並べているほうが」
「はい」
「でも、覚えてました」
蔵本は、少し歩いてから、続けた。
「米屋の親父も、覚えてた。だから、来るなと言われた。……忘れてたら、来るなとも、言われません」
要はその言葉をそのまま聞いていた。来るな、という言葉は、忘れられていないことの裏返しだった。この町では、憎まれることも、覚えられ方の一つだった。
蔵本はそれきり何も言わなかった。
海が見えるところで、一度だけ立ち止まって、痩せた鯨の看板を見上げた。看板の青はところどころ剥げていた。剥げた青の下から、古い色が覗いていた。
「送りますよ。隣の市まで」
要が言った。
「いえ。駅から帰ります」
蔵本は言った。
「この町を、少し、歩いておきたいんです。……五年、歩かなかったので」
要は、それ以上勧めなかった。
蔵本は、海のほうへ一人で歩いていった。痩せた鯨の下を、通っていった。その背中は、ホームセンターの売り場で見たときより、少しだけ、まっすぐだった。
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