第106話 五年、待ったぞ
水曜の夜、潮見銀座商店街のアーケードは、半分だけ明るかった。
シャッターの下りた店が、間に挟まっている。閉まった店と、開いた店が、一軒おきのように並んでいる。その並びのいちばん奥に、焼き鳥屋の赤い暖簾が出ていた。
要が着いたとき、蔵本は、すでに向かいの電柱のところに立っていた。
来ていた。だが、暖簾のほうを見ていなかった。アーケードの反対の端を見ていた。いつでも帰れる方向を見ていた。
要は何も言わずに先に暖簾をくぐった。
三分ほどして、蔵本が入ってきた。
鍬形は炭を返していた。
顔を上げて、要を見て、それから、その後ろを見た。
手が止まった。火箸を持ったまま、止まった。
店の中は狭い。カウンターが七席。この時間はまだ客がいない。炭の匂いだけが満ちていた。
長い時間だった。
鍬形は火箸を置かなかった。置かないまま、炭を一度ひっくり返した。火が赤くなった。赤くなった火を鍬形は見ていた。蔵本を見ないための火だった。
それから、鍬形は言った。
「……あんた、あんとき、うちに来たな」
蔵本は立ったままだった。
「はい」
「頭、下げてたな」
「はい」
鍬形はまだ炭を見ていた。
「会社が逃げたあとも、一人で謝りに来たのは、あんただけだった」
蔵本の膝が少し折れた。カウンターに手をついた。
「あの金は」
蔵本が言いかけた。
「金の話は、してねえ」
鍬形が遮った。
「あの日、あんた、封筒を出したろう。俺は突っ返した」
「……はい」
「なんで突っ返したか、分かるか」
蔵本は答えられなかった。
鍬形は火箸を置いた。ようやく、置いた。
「あんたが払う筋合いのもんじゃねえからだ。それを払わせたら、逃げたやつが、逃げ得になる」
鍬形は初めて蔵本の顔を見た。
「俺は、あんたに怒ってねえよ。あんたが最後まで来なくなったのが、腹立っただけだ」
蔵本は何も言えなかった。
要は、いちばん端の椅子に座って、黙っていた。この店で、要が喋る場面ではなかった。
「二度と暖簾をくぐるなって、言ったでしょう」
蔵本がやっと言った。
「言った」
鍬形はうなずいた。
「言ったな。あんときは、そう言うしかなかった。うちの店も、あの年、危なかったんだ」
鍬形は、串を一本、火にのせた。脂が落ちて、音がした。小さな煙が上がった。
「五年、待ったぞ」
蔵本の顔が崩れた。
鍬形はその顔を見なかった。串だけ見ていた。崩れた顔を見ないのが、この男の情けだった。
それから、要のほうを向いて、こう言った。
「兄ちゃん。この人、雇うのか」
「はい」
「そうか」
鍬形は焼き上がった串を蔵本の前の皿に置いた。皿はあらかじめそこに置いてあった。蔵本が来ることを、鍬形はどこかで分かっていたのかもしれなかった。
「なら、まず、食え。話は、それからだ」
蔵本は皿の串をしばらく見ていた。
手を伸ばせなかった。五年前、この店で、封筒を突っ返された手だった。その手で、この店の串を取っていいのか、蔵本には分からないようだった。
「食えねえのか」
鍬形が言った。
「……いえ」
「冷めるぞ」
蔵本は串を取った。一口、食べた。
食べてから、下を向いた。長いあいだ、下を向いていた。
要はそのあいだ店の壁を見ていた。古い品書きが貼ってある。値段が何度か書き直された跡があった。この店も五年、いろいろあったのだと要は思った。
鍬形は次の串を火にのせた。何も言わなかった。言わないことが、この店の話の続きだった。
要が勘定を払おうとすると、鍬形は手を振った。
「今日は、いい」
「……いえ」
「五年ぶりに来た客から、金は取らねえ」
鍬形は、あごで蔵本のほうを指した。要のことではなかった。
外に出ると、アーケードの明かりが、来たときより少し減っていた。閉める店が、一軒、シャッターを下ろしていた。その音を、蔵本は聞いていた。
――最後まで読んでくださって、ありがとうございます。
続きが気になったら、ブックマークしていただけると嬉しいです。
ページ下の★評価も、続きを書く力になります。




