第105話 その人が、また、出してる
要は、その週にもう一度、隣の市へ行った。
説得はしなかった。休憩室にも入らなかった。駐車場で、車に乗る蔵本を待って、一つだけ言った。
「一度、うちの体育館に来てもらえませんか」
「行きません」
「五分でいいです。見てもらいたいものがあります」
蔵本は断った。車のドアを閉めて、行ってしまった。
要は翌週も行った。同じ駐車場で、同じ時間に、待った。三度目に、蔵本は「日曜の午前なら」と言った。断り続ける理由を、探すのに疲れたような言い方だった。断るのも体力の要ることだった。
日曜の午前の体育館は、誰もいなかった。
要は正面から入れなかった。正面から入れば、コートが見える。要が見せたいのは、コートではなかった。裏の通用口から、通路を通って、一階の客席の入口へ出た。
そこに壁がある。
木の札。プラスチックの札。ボール紙に子どもが書いた札。大きさも、色も、字も、ばらばらだった。それが通路の壁を天井の近くまで埋めている。
蔵本は入口で止まった。
一歩も動かなかった。
「……何ですか、これは」
「協賛です。月に三千円で、店の名前を出せます」
「三千円」
「はい。いちばん安いところは、五百円です」
蔵本は壁に近づいた。近づいて、端から読み始めた。
読む速さがだんだん遅くなった。
知っている名前が、並んでいるからだった。五年前、蔵本が頭を下げて回った、あの四十一軒の中の名前が、そこにあった。消えたと思っていた名前が、別の額でまた出ていた。
「……鍬形さん」
蔵本はその一枚の前で止まった。
木の札だった。焼き鳥屋の屋号が彫ってある。彫った字だった。他の札より、手間がかかっていた。
「あの人は、五年前、私に、何て言ったと思いますか」
蔵本は要のほうを見なかった。
「二度と、この暖簾をくぐるな。そう言われました」
「……」
「その人が、また、出してる」
蔵本の手が壁のほうへ上がりかけた。触る手前で止まった。指が札の少し前で宙に止まっていた。
その手が隣の札へ少しずれた。
総菜屋の札だった。子どもが書いたのか、字が大きく、はみ出している。屋号の下に小さく、丸が三つ描いてあった。何の丸かは分からなかった。
「ここも、私が回りました」
蔵本は言った。
「五年前、ここのご主人に、菓子を持たされました。集金に来た人間に、菓子を持たせる家です。……その菓子を、私は東京に持って帰りました」
蔵本はその丸を見ていた。
「持って帰ったきり、二度と、来られなくなった」
そこから、しばらく動かなかった。
「私が集めた金は、消えました」
蔵本は言った。声が掠れていた。
「消したのは、私じゃない。でも、集めたのは、私です」
「はい」
「それの上に、また、これが積んである」
蔵本は壁の端から端までを一度だけ見渡した。三百二十七枚あった。五年前の四十一軒が消えて、また別の形で三百二十七枚になっていた。
「……私は、この壁の上には、立てません」
要はそこで初めて口を開いた。
「立てるかどうかを、僕は決められません」
蔵本が振り向いた。
「決められるのは、この札を出した人たちです」
要は言った。
「今週の水曜の夜、焼き鳥屋に行きます。蔵本さんが来ても来なくても、僕は行きます」
蔵本は答えなかった。
要はそれ以上何も言わなかった。壁の前に、二人でしばらく立っていた。誰もいない体育館は、二人の足音以外、何の音もしなかった。
帰り際、蔵本は入口でもう一度、壁を振り返った。
「三百二十七枚、ですか」
「はい」
「私が集めたのは、四十一軒でした」
蔵本は言った。
「五年で、消えて、その八倍になってる。……同じ町なのに」
要は、答えなかった。同じ町だった。集めた人間が、違うだけだった。屋台のついでに集めた三百二十七枚と、会社の看板で集めた四十一軒。どちらが正しかったかを、要はまだ言えなかった。
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