第103話 返せと言った男
蔵本は、休憩室でなら十分だけ、と言った。
その十分を、時計で計るような言い方だった。三十年、時間で動いてきた人間の区切り方だった。
自動販売機と、折り畳みの長机がある部屋だった。壁に、従業員のシフト表が貼ってある。エプロンを外さずに蔵本は座った。外すつもりがないということだった。
「あなた、うちの名簿を持ってるんでしょう」
「はい」
「なら、話は早い。あの四十一社は、私が回りました」
蔵本は机の木目を見ていた。指で、その木目を一度なぞった。
「潮見銀座を、端から端まで。一軒ずつです。三年で、二回ずつ回りました。焼き鳥屋も、米屋も、総菜屋も、写真屋も。……頭を下げて、金を出してもらった」
「はい」
「集めるだけ集めて、会社は東京に帰りました」
蔵本はそこで初めて要を見た。
「私は、その後で、切られました」
要は何も言わなかった。相槌も打たなかった。この人が話しているのは、要に向かってではなかった。五年、誰にも言えなかった相手に向かって話していた。要はその相手の椅子にたまたま座っているだけだった。
「あんたのクラブに、私が顔を出せると思いますか」
蔵本は言った。
「あの町の人たちは、私の顔を覚えてます。金を持っていった男の顔です」
「一つだけ、伺っていいですか」
要は言った。
「なぜ、切られたんですか」
蔵本の口元が少し動いた。笑ったのかもしれなかった。うまく笑えていなかった。
「言ったんですよ、社内で」
「何をですか」
「協賛金を、返すべきだと」
蔵本は缶コーヒーを一口飲んだ。もう冷めているはずだった。買ってから、一度も温くならない時間、そこに置かれていた缶だった。
「三年ぶんです。撤退が決まった時点で、まだ試合をしていない年の分が残ってた。あれは、預かってる金だ、と。返すか、それが無理なら、せめて一軒ずつ回って説明しろ、と」
「……」
「通りませんでした。法律上は返す義務がないと言われました。それは、そうなんです。正しいんです」
蔵本は缶を置いた。机に小さな音がした。
「そのあと、私の名前が、名簿に載りました。別の名簿にね」
会社を辞めさせる人間の名簿だった。協賛を集める名簿を作った男が、最後に、別の名簿に自分の名前で載った。
「返せなかったので」
蔵本は続けた。
「自分の分を、少し持っていきました。退職金の、いくらか。焼き鳥屋にも、行きました」
要はそこで初めて息を止めた。
「受け取ってもらえませんでした」
蔵本は言った。
「当たり前です。私が持っていっても、あれは会社が返したことにならない。あの人は、それが分かってた」
蔵本は立ち上がった。休憩の十分が終わっていた。時計を見なくても、この人には分かるようだった。
「だから、行けないんです。私が赦されてないからじゃない。赦されないままのほうが、正しいからです」
蔵本は、エプロンの紐を一度、結び直した。
そして、売り場へ戻っていった。要のほうを、もう振り返らなかった。青いエプロンの背中が、肥料の棚の向こうに消えた。
要は冷めた缶が置かれたままの机をしばらく見ていた。十分は、正確に、十分だった。
駐車場に出ると、日曜の昼の光が、まぶしかった。買い物客が、台車に土の袋を積んで、車のほうへ運んでいる。ここは蔵本の町ではなかった。誰も、蔵本の顔を知らない。だからこの人はここにいる。
要は、車のドアに手をかけて、一度止まった。
赦されないままのほうが、正しい。蔵本はそう言った。
要にはその正しさが分かる気がした。分かるからこそ、放っておけなかった。正しさのために、この人が五年、園芸用品の棚の前に立っている。その正しさはこの人一人のものではなかった。潮見銀座の端から端までの、四十一軒ぶんの正しさだった。
決めるのは、蔵本ではない。要は、そう思った。
決めるのは、あの町の人たちのほうだった。
要は、車に乗った。エンジンをかけて、隣の市の道を潮見のほうへ戻った。帰り道の途中で、海が見えた。痩せた鯨の看板が、遠くに小さく立っていた。
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