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第95話 白い建物の影

 メルダートの組合本部は、街でいちばん高い丘の上にあった。


 白い石を積んだ堂々とした建物だった。正面には大きな天秤の像。柱には歴代の名高い鑑定士の名が刻まれている。何百年も続く由緒ある組合の総本山だった。その奥の一室で、評議員オットー・レーヴェは一通の報告を読んでいた。


 差出人は、査定長オズワルド・ケイン。


 報告にはこうあった。グラナでの正規検め所は、いかさまの目利きの妨害により、やむなく閉じた。徽章なき者が市井を惑わし、組合の権威を踏みにじっている。至急、より強い手立てを──。


 レーヴェは報告を静かに机に置いた。


「妨害、か」


 低い声でつぶやいた。報告の行間は、痩せた老人にはたやすく読めた。妨害などではない。検め所の徽章持ちが芯まで視られず、外れた品に公認を押した。それだけのことだ。オズの送り込んだ男は、品で負けて逃げ帰った。査定長は、それを「妨害」と書き換えてよこした。


 二度目だ、と思った。


 査定長自身、グラナで芯に巣のある延べ板を見抜けず恥をかいて帰っている。今度は手駒まで同じ目に遭わせた。レーヴェの胸にわずかな苛立ちが差した。けれど顔には何も出さなかった。使えぬ駒には使えぬ駒の役目がある。盤の上では、捨て駒もまた、一手だ。


 レーヴェは長い年月をこの組合で生きてきた。若い鑑定士が血気に逸るのも、査定長のような小者が格にしがみつくのも、飽きるほど見てきた。人はそれぞれの器のままに動く。器の小さい者を責めても始まらない。ただその動きを読み、置くべきところへ置くだけだ。査定長の失態でさえ、使いようはあった。徽章なき目利きが、組合の正規の検めを退けた。その話が広まれば、守旧派の徽章持ちはいよいよ危機感を募らせ、レーヴェの下に結束する。負けてなお、駒は働く。盤を見渡せる者には、無駄な一手などないのだった。


 ◇


 扉が叩かれ、一人の青年が入ってきた。


 テオ・ハルク。銅の徽章を吊るした、本部の中堅だった。若いが実力で本部に上がった男だ。先のメルダートの総検めにも、名代として立ち会っていた。実直な目をしていた。


「レーヴェ評議員。お時間を」


「テオか。──何用だ」


「グラナの件です。通達を出して、ひと月が過ぎました。ですが連合の品は、立て直るどころか乱れ始めています」


 テオは一枚の覚え書きを差し出した。


「組合公認の検め所が押した品に外れが続いています。傷んだ酒。混ぜ物の麦。徽章で等級は読めても底の黴や芯の傷みまでは読めない。──評議員。我々は、見抜けぬものがあると、総検めの場で、その目で見たはずです」


 レーヴェは覚え書きに目を落としもしなかった。


「テオ。お前は、何を言いたい」


「グラナの目利きの目は、本物です。徽章にないものを補う。──排除するのではなく、組合の仕組みに取り込むべきだ。徽章と、目利き。二つを合わせれば、連合の品はもっと確かになる」


 静かな声だった。けれどまっすぐだった。


 レーヴェはしばらく青年を見ていた。それからゆっくりと口を開いた。


「お前の言うことは、正しい。あの目が本物であることも、私は知っている」


「では──」


「だがな、テオ」


 老人の声が、すっと冷たくなった。


「徽章は、ただの目利きの道具ではない。組合が、何百年もかけて積み上げた秩序だ。誰が品を見定めてよいか。その一線を、徽章が引いている。──その一線を、徽章なき者が越えるのを許せば、どうなる。明日には、誰もが『自分にも視える』と言い出す。秩序は、崩れる。一人の目が正しいかどうかなど、些細なことだ。大事なのは、秩序が保たれることだ」


「品が乱れても、ですか」


「品の乱れは、一時のもの。秩序の崩れは、取り返しがつかぬ」


 レーヴェは静かにそう言い切った。


 テオは唇を引き結んだ。反論の言葉はいくつも浮かんだ。けれどこの老人には届かない。それが分かっていた。レーヴェは品の良し悪しを論じているのではない。組合という仕組みそのものを、守ろうとしている。正しさよりも、秩序を。それが、この評議会でいちばん重い一人の、揺るがぬ根だった。


 会頭とは、違う。テオはそう思った。商会の会頭は欲のために嘘をついた男だったと聞く。だから嘘を暴かれて崩れた。けれどレーヴェは嘘をついていない。私腹を肥やすためでもない。本気で組合の秩序こそが連合を支えていると信じている。信じている者を、論で覆すのは難しい。暴くべき嘘がないからだ。この冷たい老人を動かすには、品で勝つだけでは足りない。組合という仕組みそのものを、内側から変えるしかない。テオには、その道の遠さが、ひしひしと感じられた。


 ◇


 テオが去ったあと、部屋に一人、残された男がいた。


 ロデリック理事。セレネの父であり、金の徽章を吊るす組合上層の一人だった。やりとりのあいだ、彼はずっと黙って窓の外を見ていた。


「ロデリック。お前は、どう思う」


 レーヴェが問うた。


 理事はすぐには答えなかった。彼の胸には、総検めの広間の光景がまだ焼きついていた。徽章なき目利きが、徽章では見抜けぬ偽りを一つずつ暴いていった。あのとき、四十年信じてきた秩序が、たしかに一度、揺れた。


「……あの目が本物であることは、私も見ました」


 理事は慎重に言葉を選んだ。


「ですが、テオの言うように取り込めば、組合の根が変わる。レーヴェ殿の言うように排せば、連合の品が乱れる。──どちらを選んでも、何かが壊れる。私には、まだ、決められぬのです」


「決められぬ、か」


 レーヴェは薄く笑った。


「よい。今は、それでよい。──決めかねている者がいるかぎり、秩序は動かぬ。それで、十分だ」


 その言葉の冷たさに、理事は背筋が寒くなった。レーヴェは理事を説き伏せようとはしなかった。ただ迷わせておけばいい。迷いが、現状を守る。この老人は、人の心の動きまで、盤の駒のように読んでいた。


 ◇


 夜。レーヴェは一人、燭台の灯りのなかにいた。


 机の上には、グラナの目利きにまつわる書きつけが、いくつも並んでいた。査定長の失態。検め所の閉鎖。連合に広がる、徽章なき者の名。老人はそれを一つずつ眺めた。急ぐ必要はなかった。査定長のような小者をぶつけて潰せる相手なら、とうに潰れている。


 ならば、正面から、組合の総意で裁けばいい。


 評議会の名のもとに、公の場であの目を試す。徽章では読めても、目利きには読めぬ品を選んで。連合じゅうの徽章持ちが見守るなかで、徽章なき者が及ばぬとはっきり示す。そうすれば、迷っている者も、組合につく。


 レーヴェは燭台の火を、静かに見つめた。


 盤は、まだ序盤だった。けれど終わらせ方は、もう見えていた。白い建物の奥で、長老は静かに、次の一手を置く場所を選んでいた。

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