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第92話 寄こせという徽章

 その鑑定士は、三日後にやってきた。


 ギルドの斜向かいの空き家を借り、組合の紋を染めた幕を張った。「組合公認・正規検め所」。墨も鮮やかな看板を、これ見よがしに掲げた。銀の徽章を吊るした、四十がらみの男だった。痩せて、あごの細い、神経質そうな顔をしていた。査定長オズワルドの息のかかった者だ、とセレネがすぐに見抜いた。


「諸君に告ぐ」


 男は検め所の前で声を張り上げた。


「組合は、徽章なき者の見定めを認めぬ。隣の相談所の印は、もはや無効である。これよりこの街の品の検めは、正規の徽章を持つわたしが行う。──まやかしの目利きに頼るのは、今日かぎりにするがよい」


 よく通る、芝居がかった声だった。査定長に似ていた。徽章を笠に着て、品ではなく格で人を従わせる。そういう物言いだった。


 幕の張られた検め所には、立派な台と帳面がそろえてあった。組合の封蝋。徽章の押し型。朱の印肉。格式の道具がひととおり並んでいた。男はそこで、持ち込まれた品に徽章をかざし、組合公認の保証印を押してやるという。検め賃は、グラナの相談所の倍だった。それでも組合の名がつくなら安いものだ、と男は胸を張った。


 俺はその様子を斜向かいから眺めていた。男の検めは、速かった。品を手に取り、徽章をかざし、ふむとうなずいて印を押す。一品にかける時間は、息を二つ三つ吐くほどだった。等級だけを読むなら、それで足りる。けれど芯の巣や底の傷みは、そんな速さでは見つからない。見つけようとしていないのだから当たり前だった。


 ◇


 何人かの商人は、そちらへ流れた。


 格式がものを言った。組合が認めぬグラナの印より、組合公認の保証印のほうが通りがいい。よその街で売るとき、組合の印があれば誰も文句を言わない。商いの作法として、そちらが安全だった。


「いいんですか、レイ」


 フィオナが悔しそうに言った。


「目の前で客を取られてるんだぞ。あいつ、品なんかろくに視ちゃいねえ。徽章をかざして、はい組合公認、で終わりだ。ぽんぽん印を押してる」


「いいんです」


 俺は机の品に目を戻した。


「困った人が来たら、視る。それだけです。あの人のところで足りるなら、それでいい。──ただ徽章は等級を読むだけです。芯までは視ない。それで通した品が、どうなるか」


 言いかけて、やめた。先のことは、確かめてみないと分からない。俺は自分の机に来た品を視ることに戻った。


 ◇


 ほころびは三日で出た。


 検め所が組合公認の印を押した酒の樽。その一つが、買い手の宿で蓋を開けられた。


 上澄みは澄んでいた。色も香りも申し分なかった。徽章をかざせば、上等の酒と出る。男は迷わず公認の印を押した。だが樽の底に黴が回っていた。仕込みのときに雑菌が入り底のほうから静かに傷んでいた。上だけ汲めば分からない。底まで使えば、腹を下す。


 宿の主人が、青い顔で樽を担いでギルドへ駆け込んできた。


「組合公認の印が押してあったんだ。間違いないと思って、客に出す前にと、ためしに底まで汲んだら……これだ。レイさん、頼む、視てくれ」


 俺はその酒を視た。


「……ダメですね、これ」


 樽を傾けて底のよどみを見た。黴の糸が、薄く漂っていた。


「底から三分の一は、もう飲めません。仕込みの桶に、洗い残しがあったんだと思います。上は無事だから徽章で視れば上等と出る。でも、傷みは下から来ていた。──この樽は、宿の客に出しちゃだめです」


 宿の主人は胸をなで下ろし、それから顔を曇らせた。組合公認の印を信じて仕入れた酒が、外れだった。同じ印の押された樽が、ほかにもいくつも市場に出回っている。


 俺は商会の検品場のことを思い出していた。あそこの鑑定士も、徽章で等級を読むのは確かだった。けれど一人で連合じゅうの荷を抱えきれず、代表の何個かを検めて残りを通す。それで底の腐りや芯の傷みが紛れていった。徽章が劣っているのではない。徽章には徽章の視るものがあり、視ないものがある。ただそれだけのことだった。なのに徽章を持つ者ほど、徽章で全部が視えると思い込む。斜向かいの男も、商会の鑑定士も、そこは同じだった。


 ◇


 話はすぐに広がった。


 組合公認の印を押された麦も、怪しいということになった。検め所へ持ち込み、公認をもらった麦袋。よく見れば、新しい麦に古い麦が二割ほど混ぜてあった。徽章は、麦の等級は読む。けれど一袋ずつ、なかの混ぜ物までは検めない。男は袋の上を一握り見て、徽章をかざし、公認と押しただけだった。


 不安になった商人たちが、公認の品を抱えてグラナの相談所へ列を作った。


 皮肉な眺めだった。組合公認の印を確かめてもらうために、組合が認めぬ目利きのところへ並ぶ。俺は一つずつ視て、傷んだ酒と混ぜ物の麦をより分けた。良いものは良い、と言ってやり、外れは外れだと伝えた。組合公認の印は、もう誰の安心にもなっていなかった。


 斜向かいの検め所から、銀の徽章の男が顔を出した。


 列が自分の前ではなく、隣の相談所へ伸びている。それを見て、男の顔がこわばった。何か言おうと口を開きかけて言葉が出てこなかった。自分の押した公認の印が、いま街じゅうで外れの目印になっている。それを、誰よりも分かっているのは、たぶん本人だった。


「徽章で、芯の巣まで視えますか」


 俺は男に尋ねた。意地悪のつもりはなかった。ただ本当に知りたかった。


「徽章は等級を読む。それはすごいことです。でも、底の黴や、混ぜ物の麦は、徽章じゃ視えない。──俺の目には、そっちが視える。どっちが上ってことじゃなくて、視えるものが違うだけなんです。だから本当は、二つあったほうがいいはずなんですけど」


 男は答えなかった。


 俺の言葉が、励ましなのか皮肉なのか、判じかねたのだろう。ただ唇をかみ、幕を下ろすように検め所へ引っ込んでいった。立派な看板だけが、空き家の軒先に取り残されていた。


 ◇


 その夜、男は店じまいの荷をまとめていた。


 組合公認の検め所は、わずか数日で誰も寄りつかなくなった。徽章を笠に着て客を奪おうとして、奪った客の品を外したまま通し、信用ごと失った。妨害は、また裏目に出た。商会のちょっかいと、同じ筋道だった。


「あの人、本部に何て報せるのかしらね」


 セレネが検め所の暗い窓を見ながら言った。


「失敗しました、とは書けないでしょうね。──きっと、グラナのいかさまに邪魔された、とでも書く。査定長が本部でそう言ったように」


 俺には、その先のことは分からなかった。


 ただ机に積まれた品を、明日もまた視るだけだった。傷んだ酒。混ぜ物の麦。徽章の押された外れの品が、今日も人を困らせていた。それを一つずつ弾く。組合が何度誰を送ってこようと、やることは変わらなかった。


 斜向かいの幕が、夜風に小さく鳴っていた。

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