第91話 無効の触れ
査定長が帰って、数日が過ぎた。
組合の触れは、思ったより速く連合じゅうへ回った。グラナの目利きの印は組合が認めぬ。徽章なき者の見定めは、信ずるに足らず。そういう触れが、各地の市場の立て札に貼られ、隊商の口から口へ伝わっていった。組合の封のついた、ものものしい紙だった。
市場は、ざわついた。
これまで目利きの印を頼りにしてきた商人たちが、戸惑った。印のついた品なら間違いない。そう思って仕入れてきたのに、その印を組合が認めぬという。ならば何を信じればいいのか。組合の徽章か。それとも、自分の目で確かめてきたグラナの印か。みなが答えを決めかねていた。
厄介なのは、組合が嘘をついているわけではないことだった。商会のときとは、そこが違う。商会は腐った品を良い品と偽った。だから暴けば崩れた。けれど組合は、ただ「徽章なき者の見定めは認めぬ」と言っているだけだ。それは嘘ではない。組合の決まりとして、筋は通っている。筋が通っているからこそ、人は逆らいにくい。正しいことを言っている者を、悪者にはできない。触れ一枚が、暴きようのない壁になって市場に立ちふさがっていた。
格式を重んじる大店は、早々に組合についた。
「組合が認めぬものを、うちの看板で扱うわけにはいかぬ」
そう言って、グラナの印の品を棚から下げる店も出た。長いものに巻かれておくのが、商いの作法だという。組合を敵に回して得することは、何もない。そういう考えだった。
◇
けれどそれで客足が止まったわけではなかった。
その朝も、ギルドの前には列ができていた。
よその街の問屋。荷を抱えた隊商。鍋を提げた近在の女房。みな、これまでどおり品を視てほしいとやってきた。組合が何と言おうと、自分の損得は自分がいちばんよく知っている。腐った肉を掴まされたくない。折れる剣を握りたくない。その一念で、人は触れよりも自分の目を選んだ。
俺はいつものように品を視た。
干し肉。麻縄。鋳物の鍋。素焼きの甕。机の上を、連合じゅうの品が流れていった。良いものに印を押し、外れに首を振る。それだけの仕事だった。組合が無効と言おうと、視えるものは視える。腐りは腐り。ヒビはヒビ。俺にできるのは、それを言うことだけだった。
近在の女房が提げてきた鋳物の鍋を、手に取った。注ぎ口の内側に、鋳るときの巣が残っていた。今は使えるが、火にかけ続ければ半年でそこから漏れる。それを伝えると、女房は「やっぱりねえ」と顔をしかめた。安いからと飛びついた鍋だった。隣の問屋が持ち込んだ素焼きの甕は、底の土の練りが甘く、水を張ればじわりとにじむ。そういう品を一つずつより分けていく。組合の触れは、机の上のどの品にも、何の関わりもなかった。傷んだ品は触れ一枚で良くなりはしない。良い品が触れ一枚で悪くなりもしない。
フィオナが相談所の隅で剣を磨きながら、列を見張っていた。格式派の店の使いが嫌がらせに来ないか、目を光らせているのだ。セレネは机のそばで、銀の徽章を手に、客の品に等級の裏書きをそえていた。徽章を持つ者が裏書きをそえれば、触れの隙を突ける。組合に正面から逆らわず、人の役に立つ道を、二人がそれぞれのやり方で支えてくれていた。
「レイさん」
列の中ほどから、一人の隊商の御者が声をかけてきた。困った顔をしていた。
「あんたの印を、組合が認めねえって触れだ。──おれたちは、これからもこの印を信じていいのかい。組合に逆らったら、商いがやりにくくなりゃしねえか」
俺は少し考えてから答えた。
「印を信じてください、とは言いません。──信じてほしいのは、品です。この干し肉は傷んでいない。だから印を押した。それだけのことです。印が組合に認められようと認められまいと、干し肉が傷んでいないことは変わりません。確かめたければ、いつでも割って見せます」
御者は、しばらく黙っていた。それからふっと肩の力を抜いて笑った。
「……違えねえ。品は品だ。組合がどう言おうと、腐った肉は腐ってらあ」
御者は印のついた荷を担いで、帰っていった。
◇
同じ頃。メルダートの組合本部では、別の風が吹いていた。
触れが連合じゅうへ回ったことを、守旧派の鑑定士たちは喜んだ。徽章なき目利きを、これで抑え込める。組合の権威は守られる。古い徽章を吊るした者ほど、満足げにうなずいた。
だが本部の片隅では、別の声もくすぶっていた。
若い鑑定士の一人が、低くつぶやいた。「触れを出したのはいい。だがグラナの印を頼っていた連合じゅうの品は、これからどうなる。組合が代わりに、その全部を検められるのか」。誰も、答えなかった。代わりに検めると言ったところで、徽章持ちの数も、検める手も、足りはしない。それは、その場の全員が分かっていた。
一段高い席で、痩せた老人が静かに目を閉じていた。
評議員のレーヴェだった。満足げな守旧派の声も、くすぶる若い声も、その耳は等しく拾っていた。けれど何も言わなかった。ただ、薄く笑っていた。盤の上の駒が、まだ動き出したばかりだ。そういう顔だった。
◇
グラナに、夕暮れが落ちた。
その日の品を視終えて、机を片づけていたときだった。ミレイユが難しい顔で一枚の紙を持ってきた。
「困ったことになりそうよ。──組合の息のかかった鑑定士が、この街に来るって。徽章を持った、れっきとした鑑定士。あなたの相談所のすぐ隣に、正規の検め所を開くんですって」
フィオナが磨いていた剣を鞘に納めた。
「正規の検め所、ねえ。──要するに、あんたの客を横から奪う気だろ。徽章を笠に着てさ。やらせとくのかよ」
「正面から喧嘩はできないわ」
セレネが静かに言った。
「相手は徽章を持つ正規の鑑定士。手を出せば、こっちが触れに逆らったことにされる。組合の思うつぼよ。──でも、心配いらない。徽章をかざして等級を読むだけの鑑定では、芯の巣は見抜けない。隣に並べば、どっちが本物か、いやでも分かる」
俺はその紙を受け取った。
組合の触れだけでは、終わらないらしい。今度は徽章を持つ者が、じかにこの街へ乗り込んでくる。何をしに来るのか、まだ分からなかった。けれどやることは変わらなかった。来た品を視て、視たままを言う。隣に誰が座ろうと、それは変わらない。腐った品は腐った品だ。徽章があってもなくても、視えるものは視える。
長い争いは、まだ始まったばかりだった。
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