第90話 徽章には視えぬもの
査定長オズワルドは、徽章を延べ板にかざした。
しばらく、もったいぶって品を眺めた。それから大げさにうなずき、声を張り上げた。
「うむ。これは最上等の鉄だ。等級は上の上。混じり気もなく、申し分ない一品。──こんな上物を外れと申すか。やはり徽章なき者の目は、当てにならぬわ」
供の者たちがほっとしたように笑った。並んだ商人たちが顔を見合わせた。査定長の言葉と俺の言葉が、真っ向から食い違った。どちらが正しいのか。誰にも、まだ分からなかった。
「では」
俺は静かに言った。
「割って、確かめてみましょう。中身を見れば、はっきりします」
オズワルドの笑みが、こわばった。
「わ、割るだと。最上等の鉄を、割るなど。──そんな無駄なことを」
「無駄ではありません。割れば芯が見えます。俺が嘘をついているなら、芯はきれいなはず。査定長様が正しいと、その場で分かります」
俺はガロを呼んだ。
偏屈な鍛冶が、のっそりと奥から出てきた。延べ板を一目見て、ふんと鼻を鳴らした。
「これか。──表だけぴかぴかの、安物だな」
ガロは延べ板を炉の脇の鉄床に載せた。大槌を振り上げ、力いっぱい打ち下ろした。
鈍い音がした。
よく鍛えた鉄なら打てば澄んだ高い音が返る。だがこの延べ板の音は、どこか濁っていた。なかに空洞がある証だ。ガロの耳は、その濁りを聞き分けていた。一度、二度、三度。三打目で、延べ板がぱっくりと割れた。鋼の悲鳴のような、乾いた音とともに。
◇
割れた断面に、皆の目が集まった。
鉄の芯の真ん中に、黒い空洞があった。空気の入った巣だ。鋳るときに温度が足りず、気泡が閉じ込められたまま固まった証だった。表からは決して見えない。徽章をかざしても読めない。けれど割れば、誰の目にもはっきりと分かった。
「巣だ」
ガロが言った。
「これを打って剣にすりゃ、この空洞が裂け目になる。半年と保たず根元からぽっきりだ。──戦いの最中に折れりゃ、使い手が死ぬ。こんなもの、まっとうな鍛冶は使わん」
ギルドが、どよめいた。
商人たちが口々にささやき合った。査定長の徽章は最上等と読んだ。だが中身は命にかかわる外れ物だった。レイの言ったとおりだった。徽章には視えないものを、徽章なき目利きが視た。その事実が、その場の全員の前に、転がっていた。
オズワルドの顔から、血の気が引いた。
「こ、これは……たまたまだ」
査定長は、しどろもどろになった。
「たまたま巣のある一枚を選んだのだ。仕組まれておる。組合を貶めるための小細工に違いない」
「小細工じゃありません」
俺は首を振った。
「その延べ板は、よその問屋さんが今朝、検めてほしいと持ち込んだもの。俺が選んだんじゃない。たまたま外れが混じっていただけです。──こういう外れは、どこの荷にも何枚かは混じります。それを見つけて弾くのが、目利きの仕事なんです」
「黙れ。徽章なき小僧が、口を慎め」
オズワルドは声を荒らげた。だが、もう誰も笑わなかった。供の者たちまで気まずそうに目を伏せていた。
ガロが大槌を肩に担いで、査定長を見下ろした。鍛冶の大男に睨まれて、オズワルドが一歩、後ずさった。「徽章ってのは、こいつの何を視るんだ。等級か。なら等級だけ読んでりゃいい。中身まで視たような顔をするな」。ガロの低い声が、ギルドの梁に響いた。査定長は何か言い返そうとして、口をぱくぱくさせただけだった。
◇
査定長は、巻物を握りしめて、後ずさった。
「と……とにかく、通達は通達だ。評議会の決である。徽章なき者の印は、無効。これは覆らぬ。──認めぬ者は、組合を敵に回すと知れ」
そう言い捨て、オズワルドは馬車に乗り込んだ。供を引き連れ逃げるように去っていった。あごを上げて乗り込んできたときとは、まるで別人だった。背を丸め、顔を伏せ、足早に。
ギルドに、しんとした空気が残った。
「……勝ったの、これ」
フィオナが、ぽつりと言った。セレネが首を振った。
「いいえ。あの査定長は、恥をかいて帰っただけ。──でも、通達は生きているの。組合の評議会が正式に決めたもの。査定長一人がやり込められても、それは消えない」
「じゃあ、レイの印は」
「無効のまま。連合じゅうにその触れが回る。グラナの目利きの印は組合が認めぬ、とね」
ミレイユが、腕を組んだ。
「困ったわね。せっかく連合の品を立て直しかけたのに。印が無効になれば、また外れ物が出回る。──商会の二の舞よ」
俺には、まだ腑に落ちなかった。
今日のことを思い返した。査定長は徽章で最上等と読んだ。だが中身は外れだった。割って見せれば誰の目にも分かった。それでも通達は消えないという。事実より、決まりが重い。正しいかどうかより誰が決めたかが重い。商会のときは、嘘を暴けば崩れていった。だが組合は、嘘をついているわけではない。だから暴くだけでは崩れない。会頭よりもずっと手強い相手だと、セレネの言葉の意味が少しだけ分かりかけた。
「なんで組合はこんなことをするんでしょう。外れを弾けば皆が助かるのに。──組合だって、いい品が出回ったほうが、いいはずなのに」
セレネが、少し考えてから答えた。
「組合にとっては品の良し悪しより、誰が見定めるかが大事なの。徽章を持つ者だけが、見定めていい。それが組合の根っこ。──そこをあなたが崩すから、怖いのよ。たとえあなたが正しくても。いえ、正しいからこそ、怖いの」
◇
その日から、グラナのギルドには、これまでどおり客が来た。
組合が印を無効と触れても、市場の人々は変わらなかった。自分の目で確かめ、納得して帰る。腐った魚を掴まされずにすむ。折れる剣を握らずにすむ。その積み重ねを、人はちゃんと覚えていた。査定長が恥をかいて帰ったことも、隊商の口から方々へ伝わった。徽章なき目利きが、金の徽章の見立てを覆した、と。
けれど、それで終わりではないことも、薄々分かっていた。
査定長は、捨て台詞を残して帰った。通達は覆らぬ、認めぬ者は組合を敵に回す、と。あの男ひとりの面目の話ではない。組合という大きな仕組みが、徽章なき目利きを認めまいとしている。一度引いても、また別の手で来る。商会のちょっかいが何度も形を変えて来たのと、同じだった。
俺は、机の上の割れた延べ板の断面を、もう一度見た。
黒い巣。徽章には視えなかったもの。俺はただ、それを視たままに言っただけだった。それのどこが、組合をそんなに怒らせるのか。やはり、よく分からなかった。けれど分からないなりに、やることは決まっていた。明日も品を視て、視たままを言う。困っている人が来たら、それに答える。それだけだ。
組合との長い争いの、ほんの入り口に、俺は立っていた。
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