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第9話 なまくら石

 フィオナの腕の腫れは、三日で引いた。


「ほら! もう平気! ね!」


 朝の広間で、彼女は左腕をぶんぶん振り回してみせた。


「腫れは引きました。でも中の筋はまだです。盾はあと二日、待ってください」


「えー。三日って言ったじゃない!」


「三日は最低の話です。視たら、まだでした」


「レイが見て平気なら平気なんでしょ?」


「平気になりかけ、です。なりかけで受けると、長引きます」


「むー」


 フィオナは唇を尖らせたが、素直に剣の手入れに戻った。


 あの夜から、彼女は俺の言うことだけは聞くようになった。ミレイユいわく「うちで一番のじゃじゃ馬が一番の聞き分けになった」そうだ。


 命に関わることだから、当然だと思う。


「ところであんた、いつまで人の腕を見てるの」


「すみません。癖で」


 近ごろ、人の体が目に入るようになった。


 ドニの腰に古い捻れ。弓使いの右肩に張り。ミレイユの目の下に寝不足。


 見ようとしなくても、気になったものが目に飛び込んでくる。品物と同じだ。


 ただ、品物と違って言いにくい。寝不足ですねと言ったらミレイユに「誰のせいよ」と睨まれた。


 帳簿が増えたのは、たぶん俺のせいだった。


「ねえねえ。それってさ、あたしのことも、その、いろいろ分かっちゃうわけ?」


 フィオナが妙な間合いで近づいてきた。


「分かりますよ。今朝は朝食を抜きましたね。あと靴の中、左の小指に豆ができかけてます」


「乙女の何かをもうちょっと期待した!」


「豆は早めに潰さない方がいいです」


「そういうとこよ!」


 何か怒られたが、豆の話は本当に大事だ。前衛は足が資本なのだから。


 ◇


 その日の昼、俺は広間の隅で妙なものを見つけた。


 ドニが、剣を研いでいた。


 それはいい。問題は、研ぎ台の上の石だ。


 灰色の、こぶし大の石。表面は鈍く、光をまるで返さない。


 俺の目が、吸い寄せられた。


「ドニさん。それ、どこで」


「あ? 砥石か? 砥石じゃねえんだけどな。亀の沢で拾った。座りがいいから剣の重し代わりよ」


「触っても?」


「おう」


 手に取る。


 ずしりと重い。見た目の倍は重い。


 指先で表面をなぞった瞬間、背中に何かが走った。


 澄んでいる。


 濁りが、ない。


 鉄だ。それも、混ざりものがほとんどない鉄。岩の姿をしているのに、中身は芯まで詰まっている。粘りが強く、火に素直で、それでいて折れない。


 こんな鉄は、六年の検品で一度しか触ったことがない。北の山から銀貨を積んで取り寄せた、特級の炉鉄。武具の芯に使う、あれだ。


 いや。


 手の中のこれは、あれより、いい。


「……ドニさん」


「なんだよ。さっきから百面相して」


「これ、すごい石です」


「は?」


「すごい石です」


「語彙どうした」


 すごいものは、すごいとしか言えない。


 ◇


 ミレイユが呼ばれ、広間の机に石が置かれた。


「なまくら石でしょ、それ」


 ミレイユは一目見て言った。


「亀の沢のあたりにごろごろしてるのよ。硬すぎて割れない、熱しても伸びない、何の役にも立たない石。だから、なまくら石」


「伸びないのは、火が足りないからです」


 俺は石を撫でた。


「並の鉄より、ずっと高い熱がいります。そのかわり一度打てば、並の剣の三倍は保つ。これは北の特級炉鉄と同じ……いえ、それより上の鉄です」


「またまたぁ」


 フィオナが笑った。


 誰も笑い返さなかったので、笑いはすぐ消えた。


「……ちなみに、値段で言うと?」


 ミレイユの声が低くなった。


「精錬して、腕のいい鍛冶師が打てば、剣一本で銀貨三十枚の品になります。素材のままでも、目利きの通る市場なら、この一塊で銀貨五、六枚」


「銀貨ご……」


 ミレイユは机に手をついた。


「うちの裏の沢に、ごろごろしてるのよね? それ」


「ごろごろだな」


 ドニがうなずいた。


「なんなら倉庫の戸の押さえも、それだぞ。あと雨樋の重しと、漬物の重しも」


「漬物の」


 ミレイユはふらりと立ち上がり、台所へ消え、漬物樽の蓋から灰色の石を抱えて戻ってきた。


 俺は受け取って、確かめた。


「いい石です。さっきのより、いいくらいです」


「うちは銀貨六枚で漬物を漬けてたの……」


 ミレイユはその場にしゃがみ込んだ。


 ◇


「整理するわよ」


 夕方、立ち直ったミレイユが帳面を開いた。


「亀の沢になまくら石……じゃなくて、その、すごい鉄がごろごろある。誰も価値を知らない。拾うのはタダ。ここまでは?」


「合ってます」


「で、これを売れば、ギルドの新しい稼ぎになる。拾って運ぶだけなら新人の依頼にもなる。護衛をつければ中堅の仕事にもなる。うちの改装の借金は商会に銀貨四百枚。利子だけで月に八枚。それが──」


 彼女はそこで言葉を切り、帳面を睨んだ。


「……だめね。売り先がないわ」


「売り先?」


「考えてもみて。うちの売り先は商会だけよ。あの石を商会に持ち込んだら、どうなる?」


 俺は少し考えた。


「ゲルツさんが安く買い叩こうとして、正規鑑定で覆されて、相場で買うことになります」


「最初はね。でもその次は? 向こうは仕入れ元を探るわ。沢のことなんてすぐ知れる。そしたら商会が直接、人を入れて掘るだけ。うちには一枚も入らない。土地の権利なんて、あの規模に主張できるもんですか」


 それは、検品場にいた俺には、よく分かる話だった。


 商会は産地を押さえるのが仕事だ。いい素材の出どころを知れば、買うのではなく、囲う。


「だから、売るなら商会の通らない道。石の出どころは、ぎりぎりまで隠す。……言うのは簡単なんだけどね」


 ミレイユは帳面の白い頁を睨んだ。


「商会を通さずに物を売る道なんて、うちは持ったことがないのよ」


 広間が静かになった。


 その静けさの中で、ドニがのんびりと言った。


「まず、本当に剣になるのか確かめるのが先じゃねえか? 話はそれからだろ」


「……それもそうね。でも誰が打つのよ。そんな上等な鉄」


「ガロの爺さんがいる」


「ガロさん? 生きてた?」


「生きてるよ。店は半分閉まってるがな」


「半分って何よ」


「商会の出店が安い量産の剣を並べだしてから、客がごっそり取られた。今は鍋の修理と蹄鉄で食ってる。けど腕は本物だぜ。俺の親父の斧は爺さんの打ちだ。三十年使って、まだ現役よ」


 三十年。


 いい仕事は、それだけで信用になる。


 グラナに、鍛冶師がいるらしい。


 明日は、そこへ行くことになった。


 膝の上の灰色の石が、ランプの明かりを鈍く吸い込んでいた。


 なまくら石。


 硬すぎて、誰にも扱えなくて、役立たずと呼ばれて転がっていた石。


 名前で損をするのは、石も人も同じらしい。

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