第8話 数字は正しい
メルダート。
交易都市連合の東の要。格式と信用の街。
その中心にあるバルロ商会の会議室では、朝から書状が読み上げられていた。
「北のロズ武具店より。先月納品の剣三本、初打ちで刃こぼれ。うち一本は曲がり。交換と詫び金を求める、とのことです」
「西のカリム薬種問屋より。回復薬一箱、効きが薄いと客の苦情。返金済み。今後の仕入れは考えさせてもらう、と」
「それと例の干し肉の件。先方は輸送のせいという説明に納得しておりません。再調査を求めています」
読み上げる若い書記の声が、だんだん小さくなる。
長机の上座で、会頭は葉巻の灰を落とした。
「で?」
「で、と言われますと」
「全部で銀貨いくらの話だと聞いている」
「……詫び金と返金を合わせて、銀貨四十枚ほどかと」
「うちの一日の商いはいくらだ」
「金貨で、二百枚ほどです」
「なら誤差だな」
会頭は書状の束を指で押しやった。
「剣は鍛冶の打ちむらだろう。薬は客の体質。干し肉は輸送だ。それぞれ型通りに詫びて、終わりにしろ」
「は……」
「だいたいだ、諸君」
会頭は帳簿係に顎をしゃくった。
「今月の検品場の経費を言ってみろ」
「先々月より、銀貨百二十枚の減でございます。検品の人手を四人から一人に減らしましたので」
「ほら見ろ」
会頭は満足げに煙を吐いた。
「詫び金が四十で、浮きが百二十。差し引き八十の得だ。検品など鑑定士が一人いれば足りる。昔が無駄に贅沢だっただけの話よ」
会議室に、控えめな笑いが起きた。
笑わなかったのは、末席の検品主任だけだった。
◇
「それと会頭。グラナの件が」
ゲルツが揉み手で進み出た。
「先日ご報告した、ギルドの目利きの件です。買い取りが四倍に跳ねました。あれが続くと、グラナ筋の利幅が」
「下請けの分際で、生意気なことだ」
会頭は鼻で笑った。
「で、何者だ。その目利きは」
「それが、どこの組合にも登録のない男でして。レイとかいう、流れ者の倉庫番だとか。正規の鑑定も使えんそうです」
末席で、検品主任の手がわずかに止まった。
誰も気づかなかった。
「鑑定も使えん素人に、うちの買い取りが負けたと?」
「め、めっそうもない。次からは手練れを行かせます。ただ……正規鑑定の等級を盾に取られると、こちらも下げようがなく」
「なら相場通り払ってやれ」
会頭は興味をなくしたように手を振った。
「相場で買っても、まだうちの儲けは出る。田舎のギルドが小銭を拾ったところで、何が変わるわけでもない。どうせ続かんよ」
「……はっ」
ゲルツは頭を下げた。
下げながら、口の中で何かを噛み潰していた。
◇
その夜。
検品場の隅で、銀の徽章の鑑定士は一人、樽と向き合っていた。
北から送り返されてきた、干し肉の樽。
蓋を開け、上から一枚ずつ取り出していく。
一枚。問題ない。
十枚。問題ない。
五十枚。問題ない。
そして、底から数えて三枚目。
指先に、ぬるりとした感触。
黒ずんだ干し肉が、底板に張りつくように沈んでいた。
鑑定士は徽章をかざした。淡い光。数字が形を結ぶ。
『干し肉。腐敗進行。等級外』
「……そんなはずは」
出荷の日、自分は確かにこの荷を鑑定した。樽の上の肉を取り、徽章をかざし、等級Bの数字を見た。
数字は正しかった。今も正しい。
上の肉はB。底の肉は等級外。
つまり自分は、樽の上だけを視て、樽のすべてに判を押したのだ。
「一樽ずつ、底まで検めるなど」
声に出してから、その先が続かなかった。
出荷は日に二百樽。自分の鑑定は一度に一品。すべてを視れば日が暮れるどころではない。
だから代表を視て、全体に判を押す。それがどこの商会でもやっている検品だ。間違っていない。
間違っていないはずだ。
「精が出るな」
振り向くと、検品主任が立っていた。
白髪まじりの、岩のような男だ。
「主任。伺いますが、前はどうしていたのです。この量を、どうやって」
「前?」
「私が来る前です。検品は四人いたと聞きました。四人がかりでも、底までは無理でしょう」
主任はしばらく黙っていた。
「四人のうち三人は、荷の積み下ろしと帳面付けだ。検めていたのは、一人だよ」
「一人? この量をですか」
「ああ」
「代表だけでしょう」
「全部だ」
主任は樽の山を見上げた。
「樽の底も、箱の隅も、梱包の中身も。あいつは全部視てた。歩きながら、撫でるみたいにな。それで一度も、外したことがなかった」
「……人間業ではない」
「俺もそう言った」
主任は薄く笑った。
「そしたらあいつ、何て返したと思う。『逆に、なぜ皆さんは気にならないんですか』だとさ」
鑑定士は答えなかった。
答える代わりに、底の黒い肉を見た。
「その方は、今どこに」
「辞めた」
主任は背を向けた。
「──いや。辞めさせたんだ、うちが」
◇
同じ夜。グラナ。
俺は商会の出店から、銀貨十五枚の返金を受け取って帰るところだった。
交渉はミレイユがした。俺は割れた盾の断面を見せて、芯材の湿気と膠の浮きを説明しただけだ。
店主は渋い顔で銀貨を数えながら、棚の同じ作りの盾を全部裏に下げた。
「あんたの言う通りにしとくよ。正直、嫌な予感はしてたんだ」
店主はぼやいた。
「ここだけの話、本部から来る荷が最近おかしい。前は箱を開けりゃそのまま棚に出せた。今は当たり外れがある。文句を言っても、数字はBだと取り合わねえ」
「数字は、嘘をつきませんから」
「あ?」
「視たところまでは、という意味です」
店主は変な顔をしていた。
帰り道は、妙に時間がかかった。
市場を抜けるたび、声をかけられるのだ。
「お、ギルドの目利きさん! ちょっとこの干し杏を見てくれよ」
「うちの鍋も頼む! 安かったんだが、どうも煮えむらが」
買い取りの日の一件は、もう街中に広まっているらしかった。等級Dの薬草がBになった話は、語られるたびに尾ひれがついて、最近では「グラナの薬草を金貨に変えた男」になっているという。
金貨に変えた覚えはない。元の値段に戻しただけだ。
干し杏はいい品だった。鍋は鋳に鬆が入っていたので、そう言うと店主は青くなって棚から下げた。
「ありがとよ! 礼はそうだな、杏を持ってけ!」
断ったのだが、気づくと両手が杏でふさがっていた。
フィオナが銀貨の袋を掲げてはしゃいだ。
「十五枚戻った! ねえ今夜これで打ち上げしない!?」
「あんたその金で次の盾を買うんでしょうが」
「次はレイに選んでもらうからいいの! ね!」
「俺が、ですか」
「専属目利きに任命します!」
任命されてしまった。
ミレイユが笑いをかみ殺しながら言った。
「よかったわね。指名料を取りなさいよ」
「では銅貨一枚で」
「安っ!」
◇
その頃。
メルダートの商会倉庫の隅では、行き場のない返品の樽が──
二つに、増えていた。
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