第7話 土下座の行方
弓使いは戸口で膝に手をつき、肩で息をしていた。
「フィオナの盾が、割れて──」
「フィオナは!? 無事なの!?」
「無事です! 無事なんですけど、とにかく聞いてください!」
「どっちなのよ!」
ミレイユが水の杯を押しつけると弓使いはひと息に飲み干した。
広間にいた冒険者たちが集まってくる。
俺は帳面を置いたまま動けずにいた。
無事。
その言葉だけを頭の中で繰り返す。
弓使いは袖で口を拭い、話し始めた。
◇
岩裂き亀は森の沢にいたという。
岩を背負ったような甲羅の大亀。木の幹をへし折る突進が武器だ。
フィオナは正面の受け役に立った。新品の円盾を構えて。
「一発目で縁の鋲が飛びました。フィオナは『へっちゃら!』って笑ってたんです。でも二発目で盾の中から、みしっ、て」
「みしっ、て」
「嫌な音でした。そしたらフィオナが急に黙ったんです。それで次の突進の前に『盾替える!』って叫んで荷馬車まで全力で走って」
弓使いは身振りを交えた。
「古い木の盾を引っ張り出して構え直しました。三発目、まともに受けて。びくともしませんでした」
「新しい方は?」
「地面に置いてたのが巻き添えで踏まれました。真っ二つです。接ぎ目からぱっくり」
広間がざわめいた。
幾つもの目がこちらを向く。
俺は何も言わなかった。特に言うことがない。
「で、討伐は」
「成功です。四発目を受け流した隙にフィオナが首を取りました。今、解体した荷と一緒にゆっくり戻ってます。俺は先触れで走ってきました」
ミレイユが受付の椅子にずるずると崩れ落ちた。
「もう……心臓がいくつあっても足りないわ……」
ドニが俺の背中を音が出るほど叩いた。
「おい倉庫番。あんた、ほんとに当てやがった」
当てたかったわけではない。
ただ、ダメなものはダメだっただけだ。
◇
夕暮れに、荷馬車が着いた。
亀の甲羅。肉の包み。割れた円盾の片割れ。
そして、フィオナ。
妙に静かだった。朝のあの声の大きさが嘘のように、広間の戸口でもじもじしている。
「……ただいま」
「おかえり。無事で何より」
ミレイユが笑い、それから顎で俺の方を指した。
フィオナは割れた盾を抱えたまま、まっすぐ俺の前まで歩いてきた。
「あのさ」
「はい」
「あたし、言ったよね。盾が割れなかったらあんた土下座って」
「言ってましたね」
「割れた」
「割れましたね」
「だから、その、筋ってものがあるじゃない」
フィオナは盾を床に置き、深く息を吸った。
そして膝を折ろうとした。
「待ってください」
俺は慌てて腕を掴んだ。
「何してるんですか」
「ど、土下座!? 割れるって言われたのに疑って、ボロ盾とか言って、恥かかせる気とか言って、それで命拾いしたんだから! 筋でしょ!」
「土下座されても、困ります」
「じゃあどうすればいいのよ!」
「どうも、しなくていいです」
俺は割れた盾を拾い上げた。
断面を見る。芯材の接ぎ目が黒ずんでいる。膠は湿気を吸って粉のようになっていた。
「それより、これです。買った店に返品しましょう。銀貨十五枚。中が湿気ていたのは作られた時からです。使い方の問題ではありません」
「……あんたって、ほんっと」
フィオナは何か言いかけて、やめて、それから笑った。
「ありがと。あんたのおかげで生きてる」
「樫の盾のおかげです」
「その盾を選んだの、誰よ」
返す言葉が見つからなかったので、俺は黙って割れた盾の縁を撫でた。
フィオナはしばらく俺の顔を見ていた。
それから急に耳まで赤くなって「お腹すいた!」と叫び、台所の方へ行ってしまった。
「分かりやすい子でしょ」
ミレイユが横で言った。
何がだろう。
「ところで、その盾。返品って簡単に言うけど、相手は商会の出店よ」
「不良品ですから」
「向こうが認めればね。……まあいいわ。明日はあたしも付いていく。言った側から掴まされてたんじゃ、買い取りの一件が台無しだもの」
ミレイユの目が据わっていた。
戦の前の顔、というやつだと思う。
◇
夕食の前に、俺は倉庫へ行った。
昼間に下ろしておいた『要返品』の円盾を、割れた盾の隣に並べる。
同じ店の、同じ作り。
縁の塗りを剥がした痕。芯材の接ぎ目の黒ずみ。膠の浮き。
何もかも同じだった。
つまり、たまたま一枚だけ悪かったわけではない。
この作りの盾は、全部こうなのだ。
検品場にいたころなら、この盾は箱から出した瞬間に弾いていた。出荷の列に並ぶことすらなかったはずだ。
それが今は、銀貨十五枚の値札をつけて、店の棚に並んでいる。
グラナの出店にあるということは、ほかの街の出店にもあるということだ。
誰かがこれを買う。構える。受ける。
そして三度目に、割れる。
「……ダメですね、これ」
独り言が、暗い倉庫に落ちた。
メルダートの検品場を、少しだけ思い出した。
俺が抜けた席には、もう誰かが座っているはずだ。銀の徽章の、ちゃんとした鑑定士が。
だったらどうして、こんな盾が出荷されてくるんだろう。
考えても、分からなかった。
◇
夜、広間は亀鍋になった。
岩裂き亀の肉はいい出汁が出るらしい。大鍋を囲んで冒険者たちが騒いでいる。
フィオナは武勇伝を三回話した。三回とも、盾を持ち替えた場面で声が大きくなった。
「で、樫の盾がこう! 突進をこう! びくともしないの!」
立ち上がって、構えてみせる。
その時だった。
左腕。
籠手を外した左の前腕に、俺の目が留まった。
袖の下。見えるはずのない場所。
骨は無事だ。だが筋が腫れている。一発目を受けた時のものだろう。肘の少し下。
それと、右肩の奥に古い傷。これはもっと前のものだ。何年も前の。
……見える。
俺は手元の椀を置いた。
品物なら分かる。ずっとそうだった。木の湿気も鉄の疲れも、手に取れば分かる。
でも、人は初めてだ。
「フィオナさん」
「ん? 何、おかわり?」
「左腕、肘の下が腫れてます。今夜は冷やして、三日は盾を持たないでください。それと右肩に古い傷がありますね。雨の前の日に疼きませんか」
フィオナの動きが止まった。
椀を持ったまま、ゆっくりとこちらを向く。
「……なんで分かるの。服の上から」
「なんと、なく……」
「雨の日のことまで言ってないよね!? 誰にも言ってないよね!?」
「フィオナ、観念なさい。レイの目は当たるから」
「服の上からよ!? おかしいでしょ!?」
騒ぐ二人の横で、俺は自分の手のひらを開いたり閉じたりしていた。
いつもの「分かる」と同じだ。同じはずなのに、違う。
あの時──盾が割れたと聞いた時、無事でいてくれと心の底から思った。
たぶん、あれからだ。
何かの蓋が、ひとつ開いた。
物だけじゃ、なくなった。
それが何を意味するのか、この時の俺はまだ知らない。
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