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第88話 第一章の締め

 グラナの門をくぐると、わっと声が上がった。


 迎えに出た人々が、馬車を取り囲んだ。ガロの大きな手が、俺の肩を叩いた。ドニが「よく帰った」と笑い、その弟が「兄弟子、おかえりなさい」と頭を下げた。トーロの組の冒険者たちが口々に、無事を喜んだ。元商会の青年が荷を運ぶのを手伝いながら、しきりに道中のことを聞きたがった。


 俺はその輪のなかで少し戸惑っていた。


 こんなふうに迎えられるのに、まだ慣れなかった。六年前、商会の門を出たときは誰も声をかけなかった。背中で扉の閉まる音を聞いただけだった。それが当たり前だと思っていた。だからこの賑やかさが、いまだ不思議だった。けれど悪い不思議ではなかった。胸の奥が、じんわりと温かくなる不思議だった。


「腹減ってんだろ。飯にしようぜ」


 フィオナがそう言って、皆を酒場へ引っ張っていった。


 通りを歩くあいだも、人が次々と声をかけてきた。市場の魚売り。革をなめす職人。蜂蜜を売る老婆。みな俺の顔を見ると、足を止めて頭を下げた。あんたの目利きのおかげで助かった、と。腐りかけの魚を掴まされずにすんだ。薄めた革を売りつけられずにすんだ。そんな小さな礼が、道のあちこちから飛んできた。一つ一つは、ささやかなことだった。けれどその小さな礼が積み重なって、いまの俺の居場所になっているのだと、改めて思った。商会では一度も聞けなかった言葉が、この街にはあふれていた。


 ◇


 その夜、ギルド御用達の酒場で、ささやかな祝いの席が開かれた。


 メルダートでの長い決着を、誰もが知っていた。連合いちの大店が崩れ、引き金にこの街の目利きがいた。そう聞いて、街の者は半ば信じ、半ば信じられずにいた。


「で、結局どうなったんだ。商会は」


 冒険者の一人が、麦酒の杯を手に尋ねた。


「なくなりました」


 俺は答えた。


「えっ」


「商会は、なくなったんです。看板も、名前も、ぜんぶ。──偽りで膨らんでいたものが、偽りの分だけしぼんで、最後は空っぽになりました」


 酒場が一瞬、静まった。それからどよめきが広がった。連合いちの大店が消える。それがどれほどの出来事か。商いに関わる者ほどよく分かった。


「お前さんがやったのか」


「いえ」


 俺は首を振った。


「俺は、どこを視ればいいかを言っただけです。あとは組合の鑑定士の方々が、ちゃんと証しを立ててくれました。会頭が崩れたのは──たぶん、俺のせいじゃありません。長いあいだ積んだ嘘の重さに、自分でつぶれたんだと思います」


 ミレイユが横で静かに杯を傾けた。


「謙遜じゃないのよね、それ」


 ミレイユは小さく笑った。


「この人、本気で自分を凡庸だと思ってるの。連合いちの商会を引っくり返しておいて、ね」


 どっと笑いが起きた。俺はなぜ笑われているのか、よく分からなかった。本当に視た場所を言っただけなのだ。


 席の隅では、トーロが帰り道の谷の話を、冒険者たちに語っていた。薬草の採れる谷の横穴のことだ。レイが危ない穴と安全な穴を見分けてくれた。あの谷を地図にすれば、安全に薬草が採れる稼ぎ場になる、と。冒険者たちが身を乗り出した。近ごろ街道沿いには、長雨や地崩れで荒れた採取地や古い坑道が増えていた。そういう場所には、いい素材も眠っているが、崩れや毒の横穴という危険もある。どこが危なくてどこが安全か。それを先に見分けられる目があれば、潜る側はずっと無事に稼げる。俺の目が、戦う者たちの命綱になりうるのだと、トーロは言った。俺は戦えない。けれど、戦う者の足元を照らすことはできる。それも一つの役目だと思えた。


 ◇


 席が落ち着いたころ、ミレイユが立ち上がった。


「みんなに、伝えておきたいことがあるの」


 ギルド長の声に、酒場が静かになった。


「商会がなくなって、連合には大きな穴が空いた。これまで連合じゅうの品の保証は、あの商会の名が担っていた。その看板がなくなったの。──これから、誰がその穴を埋めるのか。連合の品の良し悪しを、誰が見届けるのか。それがまだ、決まっていない」


 ミレイユは一同を見回した。


「うちの目利きの印はいまや、連合じゅうで一番たしかな信用になりつつある。でもね。それを面白く思わない人たちも、いる」


「組合のことか」


 ドニが低く言った。ミレイユがうなずいた。


「鑑定士組合。──徽章こそが目利きの証だと信じてきた人たちよ。その人たちにとって、徽章を持たないレイが連合じゅうの信用を集めるのは自分たちの足元が揺らぐことなの。歓迎する人もいれば、目障りに思う人もいる。組合はいま、レイをどう扱うかで割れているらしいわ」


 俺は杯を置いた。


「俺、何か悪いこと、しましたか」


「逆よ」


 セレネが横で答えた。銀の徽章を指で、軽く弾いた。


「あなたは何も悪いことをしていない。ただ、徽章のない者が徽章持ちより正しく品を視てしまった。──それが、徽章を信じてきた人たちには、いちばん都合が悪いの。父も、組合のなかでずいぶん難しい立場に立たされていると思う」


 俺には、よく分からなかった。


 品を視て視たままを言う。それだけのことでなぜ人が割れるのか。良いものを良い、悪いものを悪いと言う。それは誰かを困らせることなのか。考えても、答えは出なかった。


 ◇


 祝いの席がはねたあと、俺はギルドの軒先で、夜風に当たっていた。


 セレネが隣に来た。


「商会の決着は、終わり。──でも、これは始まりかもしれないわね」


「始まり、ですか」


「ええ」


 セレネは夜空を見上げた。


「商会という分かりやすい相手は、もういない。次にあなたの前に立つのは、もっと厄介なものよ。制度。慣わし。徽章という名の壁。──悪人じゃない。むしろ正しさを名乗る人たちが、あなたを認めまいとする。商会の会頭よりも、ずっと手強いかもしれない」


 俺はその言葉を、しばらく考えた。


 商会は、分かりやすかった。嘘の品を売る。だから外れを示す。会頭は欲のために嘘をついた。だから自分の嘘の重みでつぶれた。筋道が、まっすぐだった。だがセレネの言う次の相手は、嘘をついているわけではないらしい。正しいと信じている。徽章こそが目利きの証だと、本気で思っている。その信じている人たちが、徽章を持たない俺を認めまいとする。悪気はない。むしろ秩序を守るつもりでいる。そういう相手と、どう向き合えばいいのか。俺には、まるで見当がつかなかった。


 よく分からなかったが、一つだけ分かることはあった。これからも俺は、品を視て、視たままを言うだけだ。徽章があろうとなかろうと、それは変わらない。良いものは良い。悪いものは悪い。俺にできるのは、それだけだった。


「俺は、これまでどおりにやります」


 俺は言った。


「視た場所を言って、誰かが助かるなら、それでいいんです。徽章のことは、よく分かりませんけど」


 セレネが、ふっと笑った。


「そういうところよ。あなたが厄介なのは」


 その夜、連合の各地で、一つの名がささやかれ始めていた。


 徽章を持たぬのに、連合いちの商会を崩した目利き。グラナのレイ。──その名は、街から街へ、隊商の足に乗って広がっていった。歓迎する声と、警戒する声と、苦々しく思う声をないまぜにしながら。


 長い決着のあとに、新しい風が吹こうとしていた。俺はまだ、それがどんな風なのかを知らなかった。

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