第87話 帰る街へ
メルダートの城門を出るとき、俺は一度だけ振り返った。
寂れた大通りが朝もやのなかに沈んでいた。商会のおこぼれで栄えた街は、その商会が消えていまや見るかげもなかった。閉じた店の板戸。荷の途絶えた問屋。人の往来も細っていた。市場の立つ広場には屋台がまばらに残るだけで、かつてのにぎわいは嘘のようだった。六年前にここを追い出されたときは、もっと活気があったように思う。皮肉なものだった。俺を要らないと言った街が、俺の抜けたあとで干上がっていく。誰かがそうしたわけではない。ただ嘘で膨らんだものが、嘘の消えたぶんだけしぼんだ。それだけのことだった。
俺はこの街で生まれた。十六で商会に入るまで、この通りを毎日歩いた。だから本当は少しだけ寂しかった。ざまあみろとはどうしても思えなかった。
バッソの馬車が、ゆっくりと動き出した。
四日の道のりだった。来たときと同じ道を、今度は逆向きに帰る。あのとき俺は、追われるようにこの道を通った。背嚢ひとつを背負い、行く先のあてもなく、ただ街道を西へ歩いた。腹を空かせて野宿し川の水を飲み、それでもどこかで誰かが品を視てほしがるかもしれないと、それだけを頼りに歩いた。いまは待っている人のいる街へ帰る道だった。馬車に揺られ隣には仲間がいる。同じ一本の道が行きと帰りでこんなにも違って見えるのかと思った。道は変わっていない。変わったのは、俺のほうだった。
すれ違う荷馬車のいくつかに見覚えのある紋はもうなかった。秤と麦穂の紋の馬車は、もうどこにも走っていなかった。連合じゅうの荷を運んでいた大店の影が、街道からすっかり消えていた。
「せいせいするわね」
御者台のミレイユが、前を向いたまま言った。
「あの街、あなたを追い出した街でしょう。──滅びかけてるのを見て、ざまあみろとは思わないの」
「思いません」
俺は荷台の縁にもたれて答えた。
「街は悪くないので。働いてる人も、店を開けてる人も。会頭がやったことの責めを、街の人が負うのは、なんだか違う気がします」
ミレイユが小さく笑った。あきれたような、けれどどこか嬉しそうな笑いだった。
「ほんと、あなたって人は」
◇
道中は、にぎやかだった。
フィオナが荷台で剣の手入れをしながら、しきりに帰ってからのことを話した。グラナに着いたらまず腹いっぱい食う。ガロの新しい剣を試す。それから依頼を片づけて、また腕を上げる。直球で、屈託がなかった。
「レイ、帰ったら一緒に飯食うぞ。約束な」
「みんなで、ですか」
「……まあ、みんなでもいいけどよ」
フィオナがそっぽを向いた。耳が少し赤かった。
「あなた、相変わらず鈍いわね」
セレネが横で、ため息をついた。銀の徽章が朝日に光った。メルダートでの総検めを終えて、セレネはどこか吹っ切れた顔をしていた。父である理事との長い向き合いを自分なりに決着させたあとの顔だった。
「私はね、レイ」
セレネは言った。
「あなたのそばで、目を学ぶと決めたの。徽章では量れないものがあると、メルダートで思い知ったから。──だからこれは、惚れたとか、そういう話とは別。鑑定士としての話よ」
「はい。よろしくお願いします」
「……そこで素直にうなずかれると、張り合いがないのだけど」
フィオナが小さく吹き出した。セレネがにらんだ。荷台の上で、ふたりのあいだに見えない火花が散った。俺にはなぜふたりが時々こうなるのか、よく分からなかった。
ミレイユは御者台で、その様子を黙って聞いていた。何も言わなかった。ただ手綱を握る指に、少しだけ力がこもったのを、俺は見ていた。
夜、焚き火を囲んだとき、ミレイユがふいに口を開いた。商会へ向かう前、メルダートへ発つ前のことを覚えているかと聞かれた。あのとき俺は商会の帰参の誘いを断った。ここでは視たものを言えば皆が喜ぶ、商会では一度もなかった、と言って。ミレイユは「あのとき、行かないでくれてよかった」と、もう一度言った。火のはぜる音にまぎれそうな小さな声だった。俺が「はい」と答えると、ミレイユはそれ以上は何も言わず、火に枝をくべた。言いかけた言葉を、また飲み込んだように見えた。何を言いかけたのか、俺には分からなかった。聞き返すのも、なんだか違う気がして、俺も黙って火を見ていた。
◇
三日目の夕方、街道を外れた谷あいで、馬車を休めた。
バッソが「この先の沢は、近ごろ物騒でね」と言った。
「薬草の採れる谷でね。冒険者がよく入る。だが先の長雨で地崩れがあってから、横穴から妙な気が出るようになった。採りに入った者が、何人か倒れたそうだ」
「妙な気、ですか」
俺は立ち上がった。谷の入り口まで歩いて、奥を見た。
夕日が斜めに差し込んでいた。崩れた斜面の奥にいくつもの横穴が口を開けていた。そのうちの一つからうっすらと、空気のゆがみが視えた。
「あの右から三つ目の横穴。あれは、いけません」
俺は言った。
「奥に水が溜まって、腐っています。腐った水から、目に見えない気が湧いてる。深く入ると、頭が痛くなって、足が立たなくなる。──毒の沼が、岩の下に隠れてるんです」
バッソが目を丸くした。
「見えるのか。そんなものまで」
「気の流れと、岩の色が、少し違うので。あと、左の二つは大丈夫です。むしろ左のいちばん奥に、いい薬草の根が伸びてます。崩れた拍子に、深いところの土が出たんでしょう」
フィオナが身を乗り出した。
「じゃあ左から入って、右の三つ目を避けりゃ安全ってことか」
「はい。横穴に印をつけて、地図にしておけば、冒険者が迷わずにすみます」
フィオナが「よし」と立ち上がった。
「グラナに帰ったら、トーロと組んで、この谷を検めに来ようぜ。レイが危ない穴を教えて、おれたちが安全な道を作る。──そういう仕事、おれは嫌いじゃねえ」
俺はうなずいた。
戦うのはフィオナたちだ。俺は危ない場所と、いい場所を見分けるだけ。それで誰かが安全に潜って、無事に帰ってこられるなら、悪くない役目だと思った。
セレネが横で地図に横穴の位置を書き留めていた。ミレイユが「採取地の安全を保証するのも、これからの仕事になるかもね」とつぶやいた。商会の崩れたあと、連合じゅうで仕事の中身が少しずつ変わり始めていた。
◇
四日目の昼。
丘を越えると、見慣れた街並みが、谷あいに広がった。
グラナだった。
冒険者ギルドの旗が風にはためいていた。市場のざわめきが風に乗ってかすかに届いた。荷を担いだ人々が行き交い、露店の主が客を呼び、子どもが路地を駆けていく。出ていったときと何も変わらない街だった。けれど俺にはなぜか、出ていったときよりずっと明るく見えた。
門のあたりに、人影がいくつも見えた。ガロの大きな背中。ドニとその弟。トーロの組の冒険者たち。元商会の青年。みな手を止めて、坂を下ってくる馬車を見上げていた。誰かが手を振った。それを合図のように、みなが手を振り始めた。長く留守にしていた者を迎える、当たり前の光景だった。だが俺には、その当たり前が、胸に染みた。六年前、誰も見送らなかった門のことを思い出したからだ。
「帰ってきたわね」
ミレイユが手綱を引いた。馬車がゆっくりと、坂を下り始めた。
「ええ。帰ってきました」
俺はその街並みを、長いあいだ見ていた。
追い出された街から、ありがとうと言ってくれる街へ。長い旅がもうじき終わろうとしていた。坂の下に、見慣れた門が見えてきた。
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