第86話 切り捨てた男、ふたたび
空の蔵に、夕日が差し込んでいた。
会頭は奥の床に座り込んでいた。立派な身なりがいまは、色あせて見えた。背を丸め、何もない蔵の床を見つめていた。
俺が近づくと、会頭はゆっくりと顔を上げた。
「……お前か」
しわがれた声だった。
「グラナの、目利き。──いやもとはここの、検品係だったな」
「はい」
俺は答えた。
「レイ、といいます」
会頭はふっと笑った。乾いた笑いだった。
「名前など知らなんだ。六年も使った男の名を、わしは覚えてもいなかった」
俺は会頭の前に立った。
恨みは湧いてこなかった。ふしぎなほど、何もなかった。目の前にいるのは、すべてを失った一人の年老いた商人だった。
「お前を切ったのは、わしだ」
会頭は言った。
「検品が遅い。数字を生まぬ。利を産まぬ。要らぬ男だと思った。給金の分も働いておらぬとな。──だから切った」
「覚えています」
「あのとき、お前は何も言い返さなかった」
「言い返すことがなかったので」
俺はそのころを、思い出した。
「俺は品を視て、視たままを言うことしかできませんでした。それが利を産まないと言われれば、そうかと思うしかなかったんです」
「そうだ」
会頭はうなずいた。
「お前は利を産まなかった。お前を切っても何も変わらぬと、わしは思っていた」
会頭の声が低くなった。
「だが変わった。お前を切った途端、返品が増えた。苦情が増えた。底の傷んだ品が、芯に巣の入った品が検めをすり抜けて出ていった。──お前がそれを全部、弾いていたとは知らなんだ」
会頭は空の蔵を見回した。
「お前が弾いていた外れの品。あれをわしは利だと思っていた。安く仕入れて弾かずに売る。それが商いの腕だと思っていた。──お前はその利を、毎日捨てていた。捨てることが信用を守ることだと、お前は知っていた」
「いえ」
俺は首を振った。
「俺は難しいことは考えていませんでした。ダメな品をダメだと、言っていただけです」
「それが、できなかったのだ。わしには」
会頭は両手を見つめた。
「ダメな品を、ダメだと言う。当たり前のことだ。だがその当たり前が、わしにはできなんだ。ダメな品にも値をつけ、産地を書き換え、嘘で利を抜いた。──一枚ずつ信を切り売りしていることに、気づきもしなかった」
会頭の声が震えた。
「気づいたときには、蔵の銀よりも先に、人の信が底をついていた」
俺は黙って聞いていた。
会頭はようやく分かったのだ。何十年もかけて削ってきたものが、何だったのかを。だがそれは、すべてを失ったあとの手遅れの理解だった。
遅すぎた、と思った。蔵が空になり、人が去り、名が消えてから、ようやく見えたもの。もっと早く気づいていれば、何かが違ったのかもしれない。だが嘘は積んでいるあいだは軽く、その重さに気づくのは、いつも崩れたあとだった。会頭はその重さを、いまぜんぶ背に乗せていた。
「お前のところには、人が集まると聞いた」
会頭は言った。
「徽章もない。後ろ盾もない。ただの目利きに、商人も職人も客も集まる。何の貸しもないのに、な。──なぜだ、とずっと思っていた」
「分かったんですか」
「ああ」
会頭は力なく笑った。
「お前は、ありがとうと言われていたのだろう」
俺は息を、呑んだ。
「わしは誰にも、ありがとうとは言わせなかった。頭を下げさせ、恩を売り、利子で締め上げた。──だが、ありがとうとは一度も言われなかった。お前はその逆を、毎日やっていた」
俺はグラナでの日々を、思った。
品を視て、視たままを言う。本物を本物と言い、外れを外れと言う。それだけのことで人は喜んだ。よかった、助かった、ありがとうと言ってくれた。
ここでは一度も、なかったことだった。
「俺は追い出されて」
俺はゆっくりと言った。
「よかったと思っています」
会頭が顔を、上げた。
「ここを追い出されたから、グラナに行けました。あそこには視たものを言えば喜んでくれる人がいて、ありがとうと言ってくれる人がいた。──俺は追い出されて、はじめて居場所をもらえたんです」
俺はまっすぐ会頭を見た。
「だから恨んでいません。あなたを」
会頭は長いあいだ、黙っていた。
それからゆっくりと立ち上がった。
背は丸かった。だがその目にはもう、すがるような色はなかった。すべてを失い、すべてを理解した者の静かな目だった。
「……すまなかった、とは、言えん」
会頭は言った。
「いまさら詫びても、お前が捨てた六年は戻らぬ。わしが削った信も戻らぬ。詫びは安すぎる。──だが一つだけ、言わせてくれ」
会頭は深く、頭を下げた。
「お前は、まことの目利きだった。わしは宝を、ごみのように捨てた。──それを、わしは生涯、忘れぬ」
それが会頭にできる、精いっぱいの言葉だった。
◇
会頭は蔵を出ていった。
連合を、離れるという。商会の名は消え、財も失い、もうこの地に居場所はなかった。誰も知らぬ遠い土地で残りの日々を生きるのだと、後で聞いた。
俺は蔵の入り口で、その背を見送った。
すがる手は、もうなかった。ただ一人の老いた商人が、夕日のなかをゆっくりと去っていった。その背はもう二度と、この連合に現れることはなかった。
切り捨てた男が切り捨てた相手に、最後の頭を下げて、去っていく。
長い坂のいちばん下に、ようやくたどり着いたのだと思った。
恨んでいない、という言葉は、強がりではなかった。本当に、何もなかった。会頭を憎んでいたら、この六年は、きっと違うものになっていた。憎しみを抱えて生きるのは、重い。その重さを俺は知らずにすんだ。グラナの人たちが、俺を軽くしてくれたからだ。本物を本物と言うたびに、誰かが笑ってくれた。その笑顔が、恨みの入る隙をぜんぶ埋めてしまっていた。
だから去っていく背に、俺はただ頭を下げた。さようならとも、お元気でとも言わなかった。ただ静かに一礼した。それが、切り捨てられた男にできるせいいっぱいのことだった。
◇
夕日が空の蔵を、赤く染めていた。
セレネが俺の隣に来た。
「終わったわね」
「はい」
俺は去っていく背を、まだ見ていた。
「会頭は悪い人、だったんでしょうか」
俺はぽつりと尋ねた。セレネは少し考えてから、答えた。
「悪人が商会を滅ぼしたんじゃない。──楽なほうを選び続けた積み重ねが、滅ぼしたのよ。一度の大きな悪ではなく、小さな嘘の数えきれない重なり。それがいちばん、怖い」
俺はうなずいた。
夕日が沈んでいく。バルロ商会の蔵に、もう灯りはつかない。
長い、長い決着がついた。
あとはもう、帰るだけだった。俺たちの街へ。ありがとうと言ってくれる人の待つ街へ。
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