第85話 商会瓦解
組合の裁定が、最後の一筆まで下りた。
バルロ商会の解体である。
信用保証の資格はとうに剥奪されていた。賠償の命にも逃げ道はなくなった。隠した銀も地所も、組合に押さえられた。残された蔵も品も、すべて賠償と返金に充てられることになった。
商会という器が、ばらばらに解かれていく。
連合の商いの名簿から、バルロ商会の名が消された。連合じゅうに触れが回った。「バルロ商会の保証は、もはや存在しない。その名の印を、信ずるな」と。
三十年の大店が一片の触れで、消えた。
◇
俺はその日、商会の蔵の前に立っていた。
組合の検めに立ち会うためだった。蔵に残った品を一つずつ検め、賠償に充てるものと、もとの持ち主へ返すものに仕分ける。その入り口の役を、俺が務めていた。
蔵の扉が、開け放たれた。
かつてここから、俺は追い出された。検品係は要らないと言われて。この扉の内側で六年、品を検めた。誰にもありがとうとは言われなかった。
いま、その扉が、すべて開いていた。隠すもののなくなった蔵が外の光に晒されていた。
六年前のことを、よく覚えている。荷物をまとめろと言われた朝。たった一つの古い背嚢に、着替えと書きかけの帳面を詰めた。誰も見送らなかった。検品場の隅で、主任だけがすまなそうな顔をしていた。その顔だけが、心に残った。
あのとき俺は自分を凡庸な男だと思っていた。検品しかできない、利を産まない、要らない男。商会がそう言うなら、そうなのだろうと思った。言い返す言葉も出てこなかった。
そして俺はこの扉を出た。背中で、扉の閉まる音を聞いた。あれが、終わりだと思っていた。
蔵のなかは、思ったよりも、空だった。
賠償でかなりの品が運び出されていた。残っているのは売れ残った荷と、古い道具と、埃だけだった。かつて連合じゅうの荷で埋まっていた蔵がいまは、がらんとしていた。
俺は残った品を一つずつ検めた。
底の傷んだ干し肉。芯に巣のある鉄の延べ板。湿気た香草。どれも、外れの品だった。商会が抜き取りでしか検めなかった品。底や芯まで誰も視ていなかった品だった。
「……ダメですね、これ」
俺は湿った香草を手に取ってつぶやいた。
六年前と、同じ言葉だった。あのころもこうやって、外れを弾いていた。そして要らないと言われた。
いまは、誰も俺を止めなかった。
蔵の片隅に、一冊の帳面が落ちていた。
古い、検品の帳面だった。表紙をめくると几帳面な字が、並んでいた。六年分。苦情の一つもない、あの弾き帳だった。
主任が、ずっと棚の奥に仕舞っていたものだ。その主任も、もう商会を去った。帳面だけが、空の蔵に残されていた。
俺はその帳面を手に取った。
自分の字だった。十六で商会に入って六年、毎日つけた字だ。一枚ずつ品の良し悪しを、書き留めた。誰も読まないと思っていた。だが下働きの青年がこれを手本にしていたという。
無駄ではなかったのかもしれない、と思った。
毎日、同じことを繰り返した。品を視る。良し悪しを書く。外れを弾く。誰にも褒められず、誰にも礼を言われず、それでも手を抜かなかった。手を抜く理由が思いつかなかったからだ。ダメな品を見れば、ダメだと書く。それ以外に、書きようがなかった。
その地道な字がいま、一人の若い者の手本になっている。捨てられた帳面が、捨てられなかった。誰かが拾って、なぞっていた。報われるとは思わずに積んだものが、思わぬところで芽を出していた。
蔵の外には、人が集まっていた。
商会を去った者たちだった。手代。倉番。下働きの青年。みな職を失い、これからの道を探していた。
ミレイユがその人々の前に立った。
「まじめに働いてきた人を、探しています」
ミレイユは言った。
「グラナで。よその街で。新しい目利きの相談所で。──腐った看板の下にいたからって、あなたたちまで腐っているわけじゃない。働く場所は、これからいくらでも作れます」
下働きの青年が進み出た。
「おれ、品の見方を覚えたいです」
青年はふところの弾き帳の写しを、握りしめていた。
「この帳面の主から、ちゃんと、教わりたい」
その帳面の主が目の前にいるとは、青年は知らなかった。俺は何も言わずにうなずいた。
商会の職人たちも、新しい道を探し始めた。
商会に品を納めていた、まっとうな作り手たちだ。商会が崩れて注文を失った。だがその腕は、本物だった。商会の嘘とは、関わりがなかった。
ガロがそういう職人の何人かに、声をかけたという。
「腕のいい鍛冶がいる。革のいい職人もいる。商会の名がついて回って、行き場をなくしている。──惜しい。グラナに、来ればいい」
偏屈なガロがめずらしいことだった。だがいい仕事をする者を、ガロは見逃さなかった。
崩れた商会から、いい職人がまっとうな街へ、流れ始めていた。瓦解は、終わりであると同時に、新しい芽の、始まりでもあった。
商会という大きな器が割れて、なかに閉じ込められていたものが、外へこぼれ出た。腐ったものは捨てられ、まっとうなものは新しい器を探して動き出す。腕のいい鍛冶。誠実な革職人。几帳面な下働き。みな、これまで商会の名の下に埋もれていた者たちだった。看板が剥がれて、はじめてその一人ひとりの値打ちが見えるようになった。
器は壊れても、中身まで腐っていたわけではない。ミレイユの言ったとおりだった。腐っていたのは嘘で塗り固めた看板のほうで、その下で黙々と働いていた者たちは、ちゃんとまっとうだった。
◇
夕暮れ。
俺は空になった蔵を、もう一度見回した。
大きな蔵だった。連合いちの商会の蔵だった。それがいまは、ただの空っぽの建物だった。秤と麦穂の紋が扉の上で色あせていた。
バルロ商会はもう、ない。
三十年かけて築いた器がばらばらに解かれた。集めた信用は嘘で削れて底をつき、残ったのは空の蔵と、消えた名だけだった。
俺は不思議と、胸がすく思いはしなかった。
ただ長いものが一つ、終わったのだと思った。坂を転がり落ちた荷車が、ようやく止まったような心地だった。
◇
蔵の奥に、まだ、人の気配があった。
組合の者でも職人でもなかった。
一人の男が空の蔵の奥に座り込んでいた。背を丸め、動かなかった。
ゲオルク・バルロだった。
すべてを失った会頭が、最後にその空の蔵に残っていた。
裁きの広間で、会頭とは一度顔を合わせていた。だがあのときは、大勢の徽章持ちに囲まれた裁きの場だった。
いま、空の蔵には、俺と会頭のふたりきりだった。
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