第82話 抜けていく者たち
バルロ商会の検品場は、静まり返っていた。
かつてはここに、連合じゅうの荷が積み上がっていた。塩の袋。布の巻物。鉄の延べ板。荷馬車が朝から晩まで列をなし、人の声が絶えなかった。
いまは、その荷がない。
総検めで品が止められた。卸す先もなくなった。検品場には、売り先を失った荷が壁ぎわに寄せられているだけだった。埃をかぶった木箱。封の解かれぬ樽。どれも、行き場をなくしていた。
帳簿方の男は帳面を閉じた。
白髪まじりの瘦せた男だ。長く商会の帳面を握ってきた。会頭の背任をいちはやく見抜き、東の山への無断の支出を報せたのもこの男だった。皮肉屋で口は悪いが数字には正直だった。
その男が帳面の最後の一枚に線を引いた。
帳簿方は検品場の奥へ目をやった。
下働きの青年が荷を運ぶ手を止めていた。十六、七の若い男だ。総検めの前は、毎朝いちばんに来て蔵を開け、夜いちばん遅くまで荷を数えていた。
この青年は辞めた検品係の残した弾き帳を、ひそかに手本にしていた。六年分、苦情の一つもない帳面。その几帳面な字をなぞって、品の見方を覚えようとしていた。
商会が腐っても、この青年は腐らなかった。
「おい、小僧」
帳簿方が声をかけた。
「お前、まだここにいたのか」
「……はい」
青年は荷を置いた。
「でも運ぶ荷も、もうありません」
「だろうな」
帳簿方は鼻を鳴らした。
「荷はない。給金も、もう出まい。会頭は賠償で蔵の銀をかき集めている。下働きの給金まで回す余裕はない」
青年はうつむいた。
帳簿方はふところから一枚の紙を出した。古い字の写しだった。あの弾き帳の、写しの一枚だ。
「これ、お前のだろう。手本にしていたな」
「……勝手に写して、すみません」
「謝ることはない」
帳簿方は紙を青年に押しつけた。
「商会で一番まともな仕事をしていたのは、お前とこの帳面の主だ。皮肉なものさ。──持っていけ。ここにいても、お前の目は腐るだけだ」
その日、帳簿方は会頭室の扉を叩いた。
ゲオルク・バルロは、机の前に座っていた。灯りは一つきり。背を丸め、組んだ指を見つめていた。
「会頭。長く世話になりました」
帳簿方は淡々と言った。
「わたしは、ここを去ります」
ゲオルクは顔を上げた。
「お前まで、抜けるのか」
「ええ」
「お前は、商会の帳面を一番よく知る男だ。お前が抜ければ、誰が数字を握る」
帳簿方は薄く笑った。
「握る数字が、もうございません。蔵は空に近い。賠償の銀は流れ出る一方。帳面につけるのは、減っていく数字ばかりだ。──そんなものを握っていても、しかたがない」
「それに」
帳簿方は続けた。
「わたしは、会頭の背任を報せた男です。東の山への無断の支出を、いちはやく数字で見つけた。あのとき会頭はわたしを煙たがった。──覚えておいででしょう」
ゲオルクは、何も言わなかった。
「数字は、嘘をつきません。産地を書き換えても、抜いた差は、どこかの行に残る。わたしはそれを、ずっと見てきました。見て見ぬふりをしてきた。──もう、たくさんだ」
帳簿方は頭を下げた。
「お達者で」
そして部屋を出ていった。
止める言葉を、ゲオルクは持たなかった。
帳簿方が抜けると、堰を切ったようだった。
残っていた手代が、一人、また一人と暇を願い出た。倉番が消えた。荷の差配をしていた古手が消えた。よその商会から声がかかった者もいた。ただ黙って来なくなった者もいた。
みな、沈む船から降りていった。
残ったのは会頭と、ごく数人の取り巻きだけだった。長年の役得にあずかってきた者たち。会頭が落ちれば自分も終わる者たち。逃げ場のない者だけが、最後まで残った。
かつての賑わいは、影も形もなかった。朝いちばんに開く蔵の扉。荷を数える声。値を読み上げる帳簿方の渋い声。荷馬車の車輪のきしみ。そのどれもが、いまは消えていた。残ったのは埃の匂いと、人のいない静けさだけだった。
大きな器が、内側から、からになっていく。外から崩されたのではなかった。中の者が一人また一人と離れ、空っぽになっていく。音もない崩れ方だった。石を投げ込まれて割れるのではなく、底の栓が抜けて、水が静かに引いていくような終わり方だった。
◇
その知らせは、後始末を続ける俺たちのところにも届いた。
メルダートの宿だ。セレネが組合からの報せを読み上げた。
「商会から、人がどんどん抜けているわ。帳簿方が辞めた。手代も倉番も。──残ったのは会頭と取り巻きだけですって」
「帳簿方……」
俺はその男を思い出した。
検品係だったころ、何度か言葉を交わした。皮肉屋で、口は悪かった。だが数字には正直な人だった。俺の弾き帳を見て、ひとこと「お前の字は几帳面だな」と言った。それだけだったが、覚えていた。
「あの人も、辞めたんですか」
「ええ」
セレネは報せをたたんだ。
「腐った組織でも中の人がみな腐るわけではない。──いい人ほど、先に抜けていくのね」
元商会の青年が宿の戸口に立っていた。
半年前にグラナへ寝返った、あの銀の徽章の青年だ。いまは俺たちの裏づけ役として、後始末を手伝っている。
「辞めた者の何人かが、行き場を探しています」
青年は静かに言った。
「真面目に働いていた者ほど、商会の名がついて回って、よその商会も雇いたがらない。──気の毒です。商会の嘘とは、関わりのない者たちなのに」
「受け入れ先を探しましょう」
ミレイユが言った。
「まじめに働いてきた人なら、グラナにも、よその街にも、居場所はあります。──腐った看板の下にいたからって、その人まで腐っているわけじゃない」
俺は宿の窓から商会の方を見た。
遠くに、商会の屋根が見えた。秤と麦穂の紋を掲げた、大きな屋根だ。かつては連合じゅうの荷が集まった蔵。いまは荷も人も、抜けていく一方だった。
あの蔵から、俺は六年前に追い出された。検品係は要らないと言われて。
いま、その蔵から、人が次々に抜けていく。
不思議な気持ちだった。恨みは、もうない。ただまじめに働いていた人たちが行き場をなくすのは、忍びなかった。
「会頭はまだ残っているんですよね」
俺は言った。
「ええ」
セレネがうなずいた。
「人が抜けても、まだ何か手があると思っている。──でももう蔵は空に近い。賠償からも逃れられない」
その言葉を、俺はまだ、その重さで聞いてはいなかった。
◇
だが会頭には、まだ最後の隠し玉があった。
空になっていくはずの蔵。その帳面に、合わない数字があった。
誰にも見せていない、もう一冊の帳面。賠償から逃すために、ひそかに移した銀。書き換えた証文。
その隠し帳面の存在に、組合がまもなく、気づくことになる。
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