第81話 広がらない噂
妙な噂が流れ始めた。
メルダートの市場で、後始末を続けていたときだった。
「グラナの目利きは、まやかしだ」。「品の来た道が視えるなどと占い師のたわごとだ」。「商会を陥れるための、組合と結託した作り話だ」。
そんな噂が、市場のあちこちで囁かれ始めた。
誰かが銭を使って流しているらしい。市場に噂を撒く者がまぎれていた。荷を見るふりをして客の輪に入り、さりげなく囁いていく。一人ではなかった。市場の四方に散って、同じ言葉を繰り返している。
筋書きはよくできていた。あの目利きがまやかしなら、産地偽装の検めも嘘になる。検めが嘘なら、商会の咎も覆る。──そういう運びを、狙っているらしかった。
「会頭の差し金ね」
セレネが低い声で言った。
「裁かれてなお、あなたの目を崩そうとしている。あなたの目が偽りなら、商会の咎も偽りになる。──そう言いたいのよ。最後の悪あがき」
俺は少し考えた。
まやかし。占い師。前にも、言われたことがある。ヴァローという鑑定士に。あのときも、実力で覆せないと知ると、人はまず相手をいかさまと呼んだ。
「同じですね」
俺は言った。
「困ったときに、まやかしと呼ぶ。──それしか、手がないんだと思います」
フィオナが腕まくりをした。
「噂を撒いてる奴を、見つけて締め上げてやる。どこのどいつ?」
「待って、フィオナ」
セレネが止めた。
「締め上げたら、それこそ『力ずくで黙らせた』と言われるわ。──噂には噂で勝てない。事実で勝つしかない」
「事実で?」
「ええ」
セレネは市場を見渡した。
「ここにはあの人に品を視てもらった人が、何百人もいる。その人たちがいちばんの証人よ」
セレネの言うとおりだった。
噂は、思ったほど広がらなかった。
むしろ噂を聞いた人々が、口々に言い返し始めた。
「まやかしだと? わしの絹を本物だと証してくれたぞ」
反物商の老人が、噂を撒く者に詰め寄った。
「偽りの噂で夜も眠れなんだ。それを、本物だと言ってくれた。占い師に、そんなことができるか」
別の声も上がった。
「うちの香炉も、本物だと言ってもらった。三十年、家宝にしてきた品だ。あの目利きがいなければ、偽物かと疑ったまま死ぬところだった」
市場のあちこちで、声が上がった。
形見の銀の首飾りを持ってきた女。祝言の香炉の若い夫婦。谷の織りの老女。みな、自分の品を、あの目で視てもらった人たちだった。
その一人一人が、噂を打ち消していった。
「あの人は、わしの女房の形見を視てくれた」
声を上げたのは、あの老人だった。翠の根付けを抱えて来た、あの人だ。
「南海の翠玉だと偽られておった。だが女房がその玉を、自分の目で選んだことまで視てくれた。──占い師に、そんなあたたかいことが言えるか。あの人の目は、本物じゃ」
老人の声は震えていた。だが力があった。一人が口を開くとそれが呼び水になった。我も我もと、品を視てもらった者たちが声を上げる。市場の喧騒が、いつのまにか、噂を撒く者を取り囲む声に変わっていた。
誰かに頼まれたのではない。台本があるわけでもない。ただ自分の身に起きたことを、めいめいが語っているだけだった。その一つ一つが銭で雇われた噂よりも、ずっと重かった。
噂を撒いていた者たちは、たじろいだ。
彼らは、銭で雇われただけだった。「グラナの目利きはまやかしだ」と言って回れば、銭がもらえる。それだけのことだった。
だが市場の人々は、噂など信じなかった。
なぜなら、彼ら自身が、あの目を見ていたからだ。自分の品が本物だと証された。あるいは偽りだと暴かれ、差額が戻った。どちらにせよ、嘘ではなかった。自分の手で、確かめたことだった。
噂は、人の聞いたことには勝てる。
だが人が自分の目で見たことには、勝てない。
噂は、広がるどころか、しぼんでいった。
しまいには、噂を撒く者のほうが、市場で白い目で見られるようになった。
「あんた、商会に雇われたんだろう。──いまさら、あの会頭の肩を持って、どうする」
そう言われて、噂を撒いていた者たちは、一人、また一人と、市場から姿を消した。
まやかしの喧伝は、不発に終わった。
いや不発どころではなかった。裏目だった。
会頭がレイの目を「まやかし」と呼べば呼ぶほど、市場の人々は「あの目は本物だ」と言い返した。喧伝は、むしろレイの評判を固めてしまった。
「……皮肉なものね」
セレネが苦笑した。
「会頭は、あなたの評判を潰すために、銭を使った。なのに、その銭が、あなたの評判を固めてしまった。──撒いた噂が、ぜんぶ裏目に出ている」
俺には、よく分からなかった。
俺はただ品を視ただけだ。本物を本物と言い、偽物を偽物と言った。それだけのことが、なぜ、こんなに人の心を動かすのだろう。
「みんな、ただ本当のことを、知りたかっただけだと思います」
俺は言った。
「自分の品が本物か。偽物か。長いあいだ、商会の言うことを信じるしかなかった。──だから自分の目で確かめられたことが、嬉しかったんじゃないでしょうか」
◇
セレネがふっと笑った。
「あなたは、ほんとうに分かっていないのね」
「何がですか」
「人はあなたの目を信じているんじゃない。あなたを信じているのよ。──嘘をつかない人だと知ってしまったから」
俺は首をかしげた。
嘘をつかない。それは、当たり前のことのはずだった。品を視て、視たままを言う。それ以外に、言いようがない。
だがセレネはそれが当たり前ではないらしい、という顔をしていた。
◇
その日の夕暮れ。
市場には、もう噂は流れていなかった。
代わりに後始末の列が、また伸びていた。品を抱えた人々が本当のことを知りに、あの目のもとへ集まってくる。
会頭は、最後の手も使い果たした。
取引先のつなぎ止めも、まやかしの喧伝も。どちらも、不発に終わった。残された道はもう、ほとんどなかった。
商会の蔵は、賠償で空になっていく。悪あがきに使った銭で、残りも溶けていく。脅しに使った貸しは戻らず、喧伝に撒いた銭も戻らない。会頭は、最後の力をすべて裏目に注ぎ込んでいた。
いよいよ、商会は、立ち行かなくなろうとしていた。
俺は市場の人の波を見ていた。噂は消え、列だけが残った。本当のことを知りたい人が、今日もまた並んでいる。崩そうとすればするほど、固くなる。会頭には、それがどうしても分からないらしかった。
そしてその商会のなかから──人が、抜け始めていた。
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