第80話 すがる手
バルロ商会の会頭室は、薄暗かった。
灯りは一つきり。かつては連合じゅうの商人が頭を下げに通った部屋だ。いまは人の出入りも絶えていた。
壁には、商会の紋が掲げてあった。秤と麦穂。公正な商いの証しのはずだった。その紋が、いまは薄ぼんやりと灯りの届かぬ暗がりに沈んでいた。
棚には、各地から贈られた品が並んでいた。諸都市の名代から。隊商組合から。みな、商会の力にあやかろうと贈ってきたものだ。その贈り主は、もう一人も訪ねてこない。
ゲオルク・バルロは、机の前に座っていた。背を丸め組んだ指を見つめている。裁きの広間で膝をついたときの張りのなさが、まだ抜けきっていなかった。
裁きは下った。信用保証の資格は剥奪された。賠償の命も下った。連合の商いから退けと、組合は告げた。
だがゲオルクはまだ、終わったとは思っていなかった。
「まだ、取引先は残っている」
ゲオルクは低くつぶやいた。
三十年かけて築いた商いだ。組合の裁き一つで、すべてが消えるはずがない。古い取引先には、長年の恩を売ってきた。便宜を図ってきた。貸しもある。
その貸しを、いま取り立てるときだった。
ゲオルクは残った数少ない手代に命じた。
「古い付き合いの商人を呼べ。まだわしを頼る者はいる。商会は終わらん。──保証の看板がなくとも、わしの名で商いは続けられる」
手代は、何か言いたげな顔をした。だが結局は黙って部屋を出ていった。
◇
最初に呼ばれたのは、東の塩を扱う商人だった。
長年、商会を通して塩を売ってきた男だ。商会が便宜を図り、よその塩商を締め出して、この男に道を開いてやった。そういう貸しがあった。
「久しいな」
ゲオルクは努めて鷹揚に言った。
「組合がいらぬ裁きを下したが、商いは続く。お前とわしの仲だ。これまでどおり、わしの名で塩を回せ。なに、保証の看板など飾りだ。中身は変わらん」
塩商はしばらく黙っていた。
それから低い声で言った。
「会頭。──あんたには、長く世話になった。それは忘れちゃいない」
「だがな」
塩商は顔を上げた。
「あんたの名で商いを続けたら、わしまで沈む。産地を偽った商会だ。連合じゅうが知っている。その名のついた塩を、誰が買う。──あんたの名は、いまや疫病神だ」
ゲオルクの顔がこわばった。
「疫病神だと。三十年、お前に道を開いてやったのは、誰だ」
「その恩は返す。だが道連れにはなれん」
塩商は立ち上がった。
「あんたが道を開いてくれたのは本当だ。だがそれは、よその塩商を締め出して、相場を歪めてのことだった。──いまになって思えば、わしもあんたの嘘の片棒を担いでいたのかもしれん」
塩商は深く頭を下げた。
「世話になった。だがこれきりだ」
そして部屋を出ていった。
ゲオルクは握った拳を机に置いた。
次に呼んだのは、布を扱う商人だった。
この男には、もっと深い貸しがあった。若いころ、店が傾いたとき、商会が銭を貸してやった。それで持ち直した男だ。
その貸しを、ゲオルクは持ち出した。
「お前が傾いたとき、誰が銭を貸した。わしだ。あの恩を忘れたとは言わせん。──いまこそ、その恩を返すときだ。わしの名で、布を回せ」
布商は青ざめた。
恩は、確かにあった。だが──。
「会頭。あのとき貸していただいた銭は、利子をつけてとうにお返ししました」
布商は声を震わせながら言った。
「証文も、こちらにあります。貸し借りは、もうありません。──それに、あのときの利子は、ずいぶんと、重うございました」
ゲオルクは言葉に詰まった。
利子。確かに取った。困っている相手からぎりぎりまで取った。それが商いだと思っていた。
「あんたは、人を助けたんじゃない。助けるふりをして利子で締め上げただけだ。──いまさら恩を売られても、頭は下げられん」
布商も、出ていった。
その日、ゲオルクは何人もの商人を呼んだ。
塩商。布商。香辛料の商人。鉄を扱う男。みな長年商会の貸しのもとにいた者たちだ。
誰一人、残らなかった。
呼ばれて来た商人たちは、はじめは神妙な顔をしていた。長年の付き合いだ。会頭の落ちぶれた姿を見て、気の毒に思う者もいたかもしれない。だがつなぎ止めの話を切り出されると、みな一様に、目をそらした。
ある者は恩を返すと言って去り、ある者はもう貸し借りはないと言って去った。香辛料の商人は、ひと言の弁解もせず、ただ頭を下げて出ていった。鉄を扱う男は、「商会の名のついた鉄など、もう冒険者が手に取らん」と言い残した。だが本当の理由は、みな同じだった。
沈む船には、乗りたくない。
産地を偽った商会の名は、もはや守るに値しなかった。看板は剥がれ、保証は消えた。残ったのは、人を締め上げて作った古い貸しだけだった。
その貸しは、誰の心も縛れなかった。
◇
夜。
会頭室には、ゲオルク一人が残された。
灯りの油が、尽きかけていた。
恩を売れば、人は動くと思っていた。貸しがあれば、人は頭を下げると思っていた。三十年、そうやって商いを束ねてきた。
だが違った。
恩で縛った相手は、縛りが解ければ去る。利子で締め上げた相手は鎖が切れれば離れる。本当に人が力を貸すのは、恩や貸しではなかった。
信を預けられたときだけだ。
その信を、ゲオルクは何十年もかけて嘘で削り続けてきた。
削っているとは、思っていなかった。安く仕入れて高く売る。産地を書き換えて差を抜く。それが商いの腕だと信じてきた。一枚ずつ信を切り売りしている自覚など、なかった。
だが切り売りした信は、戻らなかった。気づいたときには、蔵の銀よりも先に、人の信が底をついていた。
ゲオルクはふと、あることを思い出した。
あの目利き──グラナの男には、人が集まる。徽章もない、ただの元検品係に。商人も、職人も、客も。何の貸しもないのに、あの男のもとへ集まる。
なぜだ、と思った。
なぜ、嘘一つつかぬあの男に人が集まり、三十年かけて商いを築いたわしから、人が離れる。
答えはもう、分かりかけていた。だが認めるには、まだ意地が残っていた。
灯りが、消えた。
暗い部屋でゲオルクは一人、座っていた。
取引先のつなぎ止めは、不発に終わった。脅しも貸しも、何一つ効かなかった。商会は、いよいよ立ち行かなくなる。
だがゲオルクには、まだ一つ、手が残っていた。
あの男の目を、もう一度「まやかし」と呼ぶことだ。
あの目さえ崩せば──まだ、何かが変わるかもしれない。
最後の悪あがきが、暗闇のなかで、形を取り始めていた。
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