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第79話 裁く側の娘

 後始末のあいだ、セレネはずっと俺の隣にいた。


 俺が品を視る。セレネが銀の徽章で、今の状態を裏づける。来歴の目は証しにならない。だが徽章持ちのセレネが裏づければ、それは組合の正式な証しになる。


 その役を、セレネは黙々と続けていた。


 ただ、ときどきその手が止まった。


 偽りの品を本物と分けるたび。被害者の顔がほどけるたび。セレネは何か言いたげに、自分の胸の銀の徽章を見下ろしていた。


 ◇


 その夜のことだ。


 俺は本部の庭で、セレネを見かけた。一人で月を見上げていた。


 古い石畳の庭だ。組合本部の裏手にある。刈り込まれた木々のあいだに、白い月の光が落ちていた。昼の喧騒が嘘のように、しんと静まっている。返金の列も、荷車の音も、もうここまでは届かない。


 セレネはいつもの令嬢らしい張りを、その背から下ろしていた。ただ一人、夜の庭で月を見上げる、若い女の姿だった。何かを、考え込んでいるようだった。


 声をかけようか迷っていると、向こうから人影が来た。


 理事だ。セレネの父。金の徽章を下げた、痩せた老人。俺はとっさに、庭の木陰に退いた。


 親子の話を、邪魔したくなかった。


 庭に、理事の低い声が落ちた。


「眠れんのか」


「父上こそ」


 セレネが振り向いた。


 理事は娘の隣に立ち、同じ月を見上げた。


「裁きを下した」


 理事はぽつりと言った。


「商会の咎を定めた。三十年、連合の商いを束ねてきた男を、膝に落とした。──正しい裁きだったと思う。だが楽な裁きではなかった」


「父上は、正しいことをなさいました」


「分かっておる。だがな」


 理事の声が、少しかすれた。


「あの男が偽りを続けられたのは、組合が産地を見抜けなかったからだ。徽章では、産地は読めん。──組合が見落としてきた穴を、あの男が突いていた。それを暴いたのは、徽章なき者の目だった」


 理事は自分の胸の金の徽章に手を触れた。


「わしは、この徽章を四十年かけて磨いた。徽章こそが目利きの証だと信じてきた。組合の秩序を守ってきた。──だがその徽章では、見抜けぬものがあった」


 理事の声には、迷いがあった。


「徽章なき者が、徽章持ちの見落としを暴く。連合じゅうが、それを知ってしまった。組合は、これからあの者をどう扱う。徽章を与えるのか。物差しを乱す者として、遠ざけるのか。──わしには、まだ答えが出ん」


「父上」


 セレネが静かに言った。


「答えは、もう出ているのではありませんか」


 理事が娘を見た。


 セレネはまっすぐに父を見返した。


「わたしは、ずっと徽章を誇りにしてきました。名家の娘として。同期随一の銀の徽章として。徽章があれば、誰より目が利くと信じていました」


 セレネの声は、落ち着いていた。


「でもあの人に会って、揺らぎました。徽章のない田舎者が、わたしの見えないものを見ていた。最初は許せなかった。物差しが崩れる気がして」


 月の光が、セレネの横顔を照らしていた。


「でもいまは分かります。崩れたのは、わたしの思い上がりです。徽章は、目利きの証ではなかった。ただの道具でした。──大事なのは、品を正しく見ること。徽章があろうとなかろうと」


「母上の腕輪を、覚えておいでですか」


 セレネが言った。


 理事の手が、わずかに動いた。


「母上の形見の、銀の腕輪。父上が二十年、肌身離さず持っていた。留め金の付け根に、見えない罅がありました。組合の誰の目でも徽章でも見えなかった罅です。──あの人だけが、見抜いた」


 セレネの声が、少し震えた。


「あのとき、わたしは思いました。徽章で量れないものが、世にはあると。母上が父上に遺した思いも、たぶん、徽章では量れません。あの人の目は、そういうものまで見ている」


 理事は何も言わなかった。


 ただ月を見上げたまま、長く黙っていた。


「わたしは決めました」


 セレネがはっきりと言った。


「組合を捨てません。徽章も捨てません。でもあの人の側に立ちます。徽章を盾にして、徽章なき目を遠ざける組合になるなら──わたしが内側から変えます」


 セレネは胸の銀の徽章を握った。


「徽章は、偉くなるためのものではありません。良い品を、正しく見るためのものです。それを忘れた組合なら、わたしが思い出させます。父上の娘として。銀の徽章を持つ者として」


 理事がゆっくりと娘を見た。


 その目に、驚きと、それから何か誇らしげなものがよぎった。


「……お前は、母に似てきたな」


 理事はふっと息をついた。


「母も、そういう女だった。格や名より中身を見る女だった。わしが徽章の格にこだわるたび、よく叱られたものだ。──お前の言うとおりかもしれん」


 理事は夜空を見上げた。


「組合は、変わらねばならんのだろう。徽章を守るためではなく、目利きを守るために。──だがそれは、わしの代では難しい。古いものほど、変わるのを恐れる」


 理事の声に、苦さがにじんだ。


「お前たちの代だ。新しい目を、組合がどう迎えるか。それは、お前たちが決めることだ」


 俺は木陰で、その話を聞いてしまっていた。


 盗み聞きするつもりはなかった。だが動けなくなっていた。


 徽章の話は、俺にはよく分からなかった。徽章があろうとなかろうと良い品は良い。悪い品は悪い。それだけのはずだった。


 でもセレネにとっては、そうではないらしい。徽章は、セレネが半生をかけて磨いてきたものだ。名家の誇りで、生き方そのものだった。そのセレネが徽章を握りしめながら、徽章を超えようとしている。


 たぶん、俺には見えていない重さが、そこにあるのだろう。


 俺はそっとその場を離れた。


 商会を崩したのは、品だった。墨と紙と花押が、嘘を語った。俺はただ入り口を開けただけだ。それで終わりだと思っていた。


 だが終わりではないらしい。


 徽章という壁。組合という、何百年も続いてきた仕組み。それは、悪人が作った嘘とは違う。長い時のなかで、まっとうに積み上げられてきたものだ。だからこそ、たやすくは動かない。会頭の嘘を崩すより、ずっと難しいのかもしれなかった。


 その壁の内側で、セレネは生まれ育った。そしていま、その壁を越えようとしている。それがどれほどのことなのか、俺にはまだ、半分も分かっていなかった。


 ◇


 翌朝。


 セレネはいつもどおり俺の隣に座っていた。だがその横顔は、どこか晴れていた。


「よく眠れましたか」


 俺が聞くとセレネは少し驚いた顔をして、それから笑った。


「ええ。──久しぶりによく眠れたわ」


 その日も、後始末は続いた。


 俺が品を視る。セレネが徽章で裏づける。二人で、一つずつ嘘を本物から分けていく。


 その手は、もう止まらなかった。


 崩れた商会の向こうに、新しい壁が見え始めていた。


 徽章という、何百年も続いてきた壁だ。


 俺には、それがどれほど高い壁なのか、まだ分からなかった。だが隣にはセレネがいた。その壁の内側で生まれ育ち、いま、壁を越えようとしている人が。


 商会との戦いは、もうすぐ終わる。


 だがその先に待つものは、まだ姿を現していなかった。

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