第83話 隠した帳面
組合の検めの広間に、一通の投げ文が届いた。
差出人の名はなかった。だが中身は、ただごとではなかった。
「バルロ商会の蔵は見かけほど空ではない。会頭は賠償から逃すため、銀を別の名義に移している」。そう書かれていた。移した先の名。動かした証文の番号。日付まで、こまかく記されていた。
理事がその文を読み、眉をひそめた。
「内通だな」
セレネの父である理事は低くつぶやいた。
「商会の内側を知る者でなければ、ここまでは書けぬ。──会頭を裏切った誰かが、書いている」
俺たちは、組合の広間に呼ばれた。
理事が投げ文を机に広げた。
「レイ殿。この証文を、視てもらえるか」
理事が示したのは、一枚の古い証文だった。土地の証文だ。会頭の縁者の名で、メルダートの外れの地所を買い取ったという証文だった。
だが日付が妙だった。
「賠償の命が下る、ひと月も前の日付になっておる」
理事が言った。
「もしこれが本物なら商会の銀では、ない。会頭の縁者が前から持っていた地所、ということになる。賠償の網にはかからぬ。──だがわしの目には、墨が新しく見える」
俺は証文を手に取った。
紙の古さと墨の古さが、合っていなかった。紙は確かに古い。だが書かれた字の墨は、まだ新しかった。半年と経っていない墨だ。
念じてみた。この証文が、どこから来たのかを。
頭の奥が、じわりと重くなった。来歴を視るのは、今日はこれが初めてだった。それでも一品視れば、こめかみの奥がきしむように痛む。
視えた。
この紙は古い証文の束から抜き取られた一枚だった。もとは別の、ずっと古い取り決めが書かれていた。その字を削り、地所の証文に書き換えてあった。書き換えたのは半年前。賠償の話が持ち上がったあとだった。
「……書き換えですね」
俺は言った。
「紙は古いものを使っています。でもいまの字は半年前に書かれたものです。古い証文の上に、新しく書き直してある。賠償から地所を逃すために」
理事は深く息を吐いた。
「やはりな」
投げ文の中身と、証文の来歴が、ぴたりと重なった。会頭は賠償の網がかかる前に、銀を地所に変え、縁者の名に移し、日付を遡らせていた。網の外へ、財を逃がそうとしていた。
「これで、逃げ道はふさがった」
理事は証文を、徽章持ちの鑑定士に回した。
「お主らの目でも墨の古さを検めよ。レイ殿の目だけでは組合の証しにならぬ。──だがどこを見ればよいかは、もう分かっておる」
徽章持ちたちが、証文をかざした。紙の繊維。墨ののり。古い字を削った跡。一つずつ調べて、みな同じ結論に達した。
書き換え。賠償逃れ。言い逃れのきかぬ証しが、そろった。
俺は頭の奥の痛みをこらえながら、考えていた。会頭は最後まで紙の上で、帳尻を合わせようとしていた。古い紙を使い、古い日付を書き、本物らしく見せかける。だが品も紙も、辿った道までは偽れない。塩漬け肉が辿った道。宝玉が辿った道。この証文が辿った道。すべて、削った字の下に残っていた。隠したつもりの嘘ほど、かえってくっきりと、跡を残すものだった。
◇
その投げ文を、誰が書いたのか。
答えはまもなく知れた。
ゲルツだった。
かつて商会の差配役で、会頭にレイの解雇を進言した男。東の山への無断の支出で背任が露見し、閑職へ落とされていた。商会のなかで、誰よりも会頭を恨んでいた男だった。
そのゲルツが保身のために、会頭を売った。
ゲルツは組合に自分から出向いてきた。
痩せて、目だけがぎらついていた。落ちぶれた身なりだった。
「わたしが、書きました」
ゲルツは理事の前で言った。
「会頭が銀を逃しているのは、本当です。証文の番号も移した先も、わたしが知っている。──全部、話します。だからわたしの罪は、軽くしてください」
虫のいい話だった。
ゲルツは会頭の背任に何年も手を貸してきた。東の山の偽の調査。無断の支出。レイの解雇の進言。みな、この男が絡んでいた。それを棚に上げて、いまになって会頭を売り、保身を図っていた。
「お主の言うことは、調べる」
理事は冷ややかに言った。
「だがお主自身の罪も調べる。会頭を売れば、自分の罪が消えると思うな。──商会の不正に、お主がどう関わったか。それも、いま明らかになる」
ゲルツの顔が、こわばった。
保身のために会頭を売ったはずが、その密告が自分の罪まで掘り起こすことになった。会頭と一緒に、ゲルツ自身も網にかかった。
俺はそれを横で見ていた。
ゲルツには、追放されたとき、ひどい言葉を投げられた。要らない、役立たずだと。恨もうと思えば恨めた。
だがふしぎと、何も湧かなかった。
この人も楽なほうを選び続けて、ここに落ちたのだろう。会頭を恨み、保身に走り、最後には仲間を売った。誰かに恨まれるより、この人はずっと自分で、自分を追い詰めていた。
追放されたあの日、俺に役立たずと言い放った男。胸を張り、見下すように笑っていた男。それがいまは別人のように痩せて、目だけをぎらつかせ、組合の前で頭を下げている。落ちぶれた、という言葉がこれほど似合う姿も、なかった。だが俺の胸には、ざまあみろという思いさえ、湧いてはこなかった。ただ、もの悲しいだけだった。
「会頭はどうなりますか」
俺は理事に尋ねた。
「賠償から逃げ道はなくなった。隠した銀も、地所も、組合が押さえる。──残るのは、空の蔵と、空の名だけだ」
理事は証文をたたんだ。
「商会はもう立ち行かぬ。これで、終わりだ」
その声に勝ち誇る響きはなかった。むしろ長く秩序を背負ってきた者の、重い疲れがにじんでいた。
◇
その夜。
俺は宿の窓から、また商会の屋根を見た。
隠した帳面が露見し、逃げ道はふさがった。賠償からは、もう逃れられない。空に近かった蔵は、これで本当に空になる。
会頭は最後まで、何かに手を伸ばし続けていた。取引先につなぎ止めに。まやかしの喧伝に。そして隠した帳面に。だがその手は伸ばすそばから、空を切った。
商会の自滅は、これで完成した。
あとはもう、崩れるのを待つだけだった。
俺は少しも晴れやかな気持ちにはならなかった。ただ長い坂を転がり落ちていく荷車を、遠くから見ているような心地だった。
その荷車は、もう、誰にも止められなかった。
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