第77話 流れ出る蔵
商会の蔵が開かれた。
裁きから七日。理事会の命で、バルロ商会の蔵が組合の立ち会いのもとに開かれた。賠償と返金にあてるためだ。偽りで得た銭。買い叩いた良品の儲け。すべて吐き出させる。そういう裁きだった。
俺は組合本部の窓から、その様子を見ていた。
蔵から荷が運び出されていく。銀の詰まった箱。証文の束。反物。延べ銀。荷車が一台、また一台と本部へ向かう。何十年もかけて積み上げた商会の蔵が、いま少しずつ空になっていく。
血が流れ出すように、と思った。
返金の差額を計る仕事は、思っていたより難しかった。
誰が、いつ、どの品を、いくらで買ったのか。それを一つずつ調べねば、いくら返すかが決まらない。連合じゅうの取引先。何十年分の証文。気の遠くなる数だった。
その帳面を、一人の男がさばいていた。
商会の帳簿方だ。痩せて、いつも皮肉な目をした男だった。商会に残っていた数少ない一人。会頭の背任を見つけ、淡々と報せた、あの男だ。
男は本部の一室で、山のような証文を前に算盤を弾いていた。
「あんたは、商会に残っていたのに」
俺はつい、声をかけた。
商会は裁かれた。だがこの男は逃げも隠れもせず、返金の帳面をさばいている。なぜだろうと思った。
男は算盤の手を止めずに答えた。
「逃げてどうする。帳面が読めるのは、商会でわしくらいだ。誰が何を買ったか。どこをどう偽ったか。──それを正しく計れる者がいなければ、被害を受けた者に、正しく銭が戻らん」
男は一枚の証文を抜いた。黄ばんだ古い紙だ。隅に書かれた数を指でなぞる。
「会頭は偽りを書かせた。だが帳面そのものは嘘をつかん。いつ、いくら動いたか。数は正直だ。その正直な数を、いまは正直に使う。それだけだ」
算盤の珠が、また小気味よく鳴った。
男の指は、ためらわなかった。古い証文を一枚ずつ繰り、買い手の名を控え、差額を弾く。その手つきには、職人めいた迷いのなさがあった。何十年も数だけを相手にしてきた者の手だった。
俺はその横顔を見ていた。
この男のことを、俺はよく知らなかった。商会にいたころ、検品場と帳簿方の部屋は別の棟だった。すれ違うこともなかった。
ただ、思い出したことがある。
六年前。俺がまだ商会の検品係だったころだ。弾いた品の控えを、几帳面に付けている男がいると聞いた。返品が出るたび、どの荷の、どの品が、なぜ戻ったかを書き留めている、と。
あれは、たぶんこの男だった。
「あんたは、ずっと正しく書いてきたんですね」
俺が言うと、男はわずかに眉を上げた。
「書くのが、わしの仕事だからな」
それだけ言って、また算盤を弾いた。
商会の者が、みな会頭のような人間だったわけではない。
俺はそれを少しずつ知っていった。
返金の場には、商会で働いていた者が、何人か手伝いに来ていた。命じられて荷を運んだ者。蔵を守っていた者。みな、商会が崩れて行き場を失った者たちだ。
その中に、若い男がいた。
検品場の下働きをしていたという。まだ二十歳そこそこの、痩せた青年だった。返金の品を運びながら、ときどき、何か言いたげに俺を見ていた。
昼が過ぎたころ、その青年が、思いきったように口を開いた。
「あの。──目利きの、レイさん、ですよね」
「はい」
「俺、検品場にいました。あなたが辞めたあとの、検品場に」
青年はうつむきがちに言った。
「あなたが弾いた品の控え。『弾き帳』っていうやつ。──あれを、主任が大事にしまっていました。俺、こっそり見たんです。六年分。傷んだ品の、どこがどう悪いか、ぜんぶ書いてあった」
青年の声が、少しずつ熱を帯びた。
「俺、あれを手本にしたんです。誰も教えてくれなかったから。あの帳面だけが、検品のやり方を教えてくれた」
俺は何と言っていいか分からなかった。
あの帳面は、ただの仕事の控えだった。次の誰かが困らないように、と書き残しただけのものだ。それが、見たこともない青年の手本になっていた。
「俺、たくさんは見抜けません」
青年は言った。
「罅とか、腐りとか。分かりやすいものだけ。産地の偽りなんて、ぜんぜん分からなかった。──でもおかしいとは思っていたんです。蔵で、安い棚の品が、高い棚に移される。証文の頁が、書き直される。見て見ぬふりをしていました。怖くて」
青年は唇を噛んだ。
「だから俺も同じです。会頭と。──見て見ぬふりをした」
「いまは、見ていますよ」
俺は言った。
青年が顔を上げた。
「返金の品を運んでいる。被害に遭った人に、銭が戻る手伝いをしている。──見て見ぬふりをしていたら、ここにはいないはずです」
青年はしばらく黙っていた。
それからぐいと目元をこすった。
「……俺、検品を、ちゃんと学びたいです。あなたみたいには、なれないけど。──罅と腐りだけでもちゃんと見抜けるように。次に検品場に立つ誰かが、見て見ぬふりをしなくて済むように」
その目は、まっすぐだった。
会頭と同じ商会にいた。同じ蔵で働いた。だがこの青年は会頭ではなかった。
夕刻。
帳簿方の男が、その日の計算を終えた。算盤を置き、肩を回す。
「会頭は、楽な儲けを選び続けた」
男は独り言のようにつぶやいた。
「だが商会の者がみな、楽を選んだわけではない。下で真面目に荷を運んだ者。正しく数を書いた者。検品を学ぼうとした者もいた。──そういう者まで、会頭の嘘に巻き込まれて、職を失う」
男は皮肉な目を少しだけ伏せた。
「いちばん楽をした男のために、いちばん真面目だった者が、いちばん割を食う。──皮肉なものだ」
俺は何も言えなかった。
◇
その夜、俺はミレイユにそのことを話した。
「商会の人、みんなが悪い人だと思っていました。でも違いました」
「そうね」
ミレイユは静かにうなずいた。
「組織が腐っても、中の人がみんな腐るわけじゃない。むしろ、まっとうな人ほど、声を上げられずに苦しむ。──あなたが追い出された商会にも、たぶん、あなたを惜しんだ人がいたのよ」
主任の顔が浮かんだ。
俺の名に、最初に気づいてくれた人。あの人も、商会に残りながら、ずっと心を痛めていたのだろう。
「真面目な人が、報われるといいんですけど」
俺がそう言うと、ミレイユは少しだけ笑った。
「報われるように、するのよ。これから。──そのために、後始末をしてるんでしょう」
蔵から流れ出た銀は、被害に遭った人々へ戻っていく。
商会の蔵は、日に日に空になっていった。
だがその一方で、商会の中にいた真面目な者たちが、少しずつ顔を上げ始めていた。帳面を正しくさばく男。検品を学びたいと願う青年。彼らは、商会が崩れたあとも、まっとうに働く場所を探していた。
窓の外では、まだ荷車が蔵と本部のあいだを行き来していた。空になっていく蔵と、増えていく返金の荷。二つの流れが、夕暮れの街でゆっくりと交差していた。
崩れていくものと、残っていくもの。
その両方を俺は見ていた。
まだ後始末は終わらない。
偽りで汚された品の名誉も、これから戻さねばならなかった。
買い叩かれ、安く値踏みされてきた、本物の作り手たちの名誉が。
面白かったら、ブックマークで応援していただけると更新の励みになります。




