第76話 偽物だった宝
翌朝。
老人はいちばんに来ていた。
昨日と同じ場所に立っている。皺の手で布の包みを胸に抱えて。一晩、眠れなかったのだろう。目が赤かった。
俺は老人を机の前に座らせた。
「昨日はすみませんでした。ちゃんと視たかったので。──今日はいちばん確かなときに視ます」
老人はこくりとうなずいた。
それから震える手で包みをほどき始めた。古い布が何重にも巻かれている。ほどくたびに布から、かすかに古い匂いが立った。長く大事にしまわれてきた品の匂いだった。
◇
最後の布がほどけた。
手のひらに小さな翠の玉が載っていた。
翡翠の根付けだ。淡い緑の玉に小さな花が彫られている。古い品だ。表面がしっとりと艶めいていた。長い年月、人の手で撫でられ続けた、その艶だった。
「これはな」
老人がぽつりと語り始めた。
「死んだ女房の形見じゃ。女房がわしに遺してくれた、たった一つの品でな」
老人の指が玉をそっと撫でた。
「女房は貧しい暮らしのなかでこれを買った。商会の品でな。『南海の翠玉』という名のある産地の上物じゃと。わしに何か値打ちのあるものを遺したいと。そう言って、長いこと銭を貯めて」
「女房はこれを買って、ひと月もせんうちに逝った」
老人の声が震えた。
「だからわしは、これを女房だと思って生きてきた。三十年、毎日撫でてきた。──だが近ごろ、商会の偽りの噂を聞いてな」
老人は顔を上げた。その目は怖がっていた。
「もしこれも偽りだったら。女房が貧しいなかで貯めた銭で買ったものが偽物だったら。──女房は騙されて逝ったことになる。それが怖くて怖くてな」
俺は玉を受け取った。
手のひらに、ひんやりと重い。彫りは素朴だった。だがていねいだった。三十年撫でられた艶が、玉をやわらかく光らせていた。
俺はまず目で見た。
緑の色。彫りの線。玉の肌。
……分かってしまった。
南海の翠玉ではない。色がわずかに浅い。南海のものはもっと深く底光りする。これは近場の山で採れる安い翠石だ。彫りはていねいだが、玉そのものは名のある産地のものではなかった。
商会は安い翠石に「南海の翠玉」の証文をつけて売った。値の何倍もの銭で。
老人の女房はそれを信じて買った。貧しいなかで銭を貯めて。
俺は目を閉じた。
本当のことを言えば、この老人は崩れてしまう。だが嘘をつくことはできない。
俺の役目は、本当のことを届けることだ。
◇
俺は来歴の目を使った。
今日の一つ目。頭の奥がじんと重くなる。
視えてきたのは一軒の小さな店だ。商会の安い品を並べた場末の店。その棚にこの翠の玉が、ほかの安物と一緒に並んでいた。
そこに一人の女が立っていた。
質素な身なりの痩せた女だ。手にすり減った財布を握っている。女は棚の玉を一つずつ手に取っていった。いくつも、いくつも。値を確かめながら。
そしてこの玉の前で手が止まった。
女はこの玉を長いあいだ見つめていた。ほかのもっと派手な玉ではなく。この小さな花の彫られた淡い緑の玉を。
女の唇が、かすかに動いた。声は来歴には届かない。だが、その口の形は読めた。「この人に、似合う」。たぶん、そう言っていた。
女はそれをそっと手に包んだ。まるで温めるように。
すり減った財布から、銭を一枚ずつ数えて出す。何度も数え直していた。足りるかどうか、確かめるように。それでも、別の安い玉に替えようとはしなかった。この玉を、はじめから決めていた。
俺は目を開けた。
胸が熱くなっていた。
「……ご老人」
俺は静かに言った。
「先につらいことを言わなければなりません。──この玉は南海の翠玉ではありません。近場の山で採れる安い翠石です。商会が産地を偽って売った品です」
老人の顔から血の気が引いた。
「……では。女房は。騙されて」
「いいえ」
俺は首を横に振った。
「奥さまは騙されていません」
老人がはっと俺を見た。
「俺の目には、品の来た道が視えます。信じられないかもしれませんが」
俺は玉をそっと老人の手に戻した。
「視えました。奥さまがこの玉を買ったときのことが。──奥さまは店でたくさんの玉を、一つずつ手に取っていました。値を確かめながら。そしてこの玉の前で手を止めた」
老人の手が震えていた。
「奥さまは産地でこれを選んだのではありません。『南海の翠玉』という名で選んだのではない。──たくさんの玉のなかからこの小さな花の玉を、ご自分の目で選んだんです。いちばん、あなたに似合うと思って」
俺は老人の目を見た。
「証文は偽りでした。でも奥さまがこの玉を選んだ気持ちは本物です。それは商会にも偽れません」
老人は玉を両手で包んだ。
昨日まで怖がっていた手だった。だがいまは違った。
老人は玉を胸に押し当てた。
「……そうか。お前は自分で選んでくれたのか」
声が震えていた。
「名のある品だから、ではなく。わしに似合うと思って。──三十年、わしは産地ばかりをありがたがっておった。馬鹿な男じゃ。お前が選んでくれた。それだけで十分だったのに」
老人の目から涙がこぼれた。
だがそれは昨日の、怖がる涙ではなかった。
俺は何も言わずにそれを見ていた。
差額は返されることになった。安い翠石を翠玉の値で買わされた。その差は大きかった。
だが老人はその銭を見ても、もう玉を疑わなかった。
「銭は女房の墓に、花を供えるのに使おう」
老人はそう言って笑った。
「お前さんのおかげで、女房をもう一度もらった気がする。──ありがとうな」
老人は玉をまた何重もの布に包んだ。大事に、大事に。
そして来たときよりもずっと軽い足どりで帰っていった。
隣で見ていたセレネが、そっと目元をぬぐった。
「……わたしには、できない仕事ね」
声が、少しかすれていた。
「徽章で量れるのは、品の値打ちだけ。あの玉が安い翠石だということは、わたしの徽章でも、すぐ分かった。でも、あの人を救ったのは、値打ちじゃなかった」
セレネは俺を見た。
「あなたは、品の向こうにいる人まで視ている。──ずるいくらい、やさしい目ね」
俺はうまく答えられなかった。
ずるい、と言われても、俺はただ視えたものを伝えただけだ。安い翠石。偽りの証文。そして、痩せた女が玉を選んだ、その手つき。どれも同じ重さで、ただ視えた。それを、そのまま届けた。それだけだった。
老人の去った戸口を見ながら、俺は思った。
商会は産地を偽った。値を偽った。たくさんの人から銭をだまし取った。それは罰せられるべき嘘だ。
だが、嘘で覆い隠せなかったものが一つだけあった。
品に込めた、人の気持ちだ。
誰かを思って選ぶ。誰かのために貯める。その気持ちだけは、どんな偽りの証文も汚せなかった。
俺の目は産地を視る。値を視る。だが、いちばん視えてよかったのは、たぶんそれだった。
仕分けの列は、まだ続いていた。
一人、また一人と品を抱えた人が机の前に座る。その一つ一つに本当のことを届けていく。
後始末は、まだ終わらなかった。
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